鳩が運ぶ顔
王宮の鳩小屋で、黒い鳩は一羽だけ別の籠に入れられていた。
その脚へ手紙を結び、届けたい相手の顔を思い浮かべれば、鳩は距離も壁も越えて必ず届く。代わりに、差出人はその顔を二度と思い出せない。
鳩係の侍女ティゼルは、夕刻に届いた命令書を握っていた。北門を出た親善使節が、峡谷で待ち伏せされる。進路を西へ変えよ。早馬でも間に合わない。
使節の護衛には、婚約者がいる。
ティゼルは普通の鳩を三羽放った。だが外は嵐で、一羽は屋根へ戻り、一羽は風に流され、最後の一羽は城壁の向こうへ落ちた。
黒い鳩だけが、静かに彼女を見ている。
婚約者の顔なら、目を閉じなくても浮かんだ。笑うと左の頬だけ窪む。鼻筋に幼いころの傷がある。仕事帰りは前髪が汗で額へ張りつく。来月の婚礼では、緊張してきっと瞬きを忘れるだろう。
顔を失っても、名前は覚えていられる。声も、手の温度も、好きになった理由も消えない。
けれど帰還の列に大勢の兵が並んだとき、どの人へ駆け寄ればいいのか分からなくなる。婚礼の日、隣に立つ男を見て、知らない人だと思うかもしれない。
「手紙を預けないのですか」
餌を運んできた小姓が尋ねた。峡谷へ入る時刻まで、あと半刻もない。
ティゼルは命令書の裏へ、自分の言葉を一行だけ足した。
――返事はいらない。必ず帰ってきて。
黒い鳩の脚へ紙を結ぶ。籠の扉を開けても、鳩は動かない。代価を待っている。
ティゼルは、婚約者の顔を細部から思い浮かべた。頬の窪み、傷、灰色の瞳。忘れる前に一度だけ全部を見直すように。
「この人へ」
鳩が羽ばたいた。
黒い翼が窓を抜けた瞬間、頭の中の顔が水へ落とした絵の具のように滲んだ。傷の位置が消え、瞳の色が消え、輪郭もほどけた。
翌朝、峡谷を避けた使節が無事に戻った。鳩小屋の階段を、一人の近衛が息を切らして上ってくる。
「ティゼル!」
聞き慣れた声だった。胸は確かに、その人のために強く鳴った。
けれど扉に立った男の顔を見ても、彼女は迎えに来た兵の一人としか思えなかった。
差し出された両腕の前で、ティゼルは名前だけを頼りに、一歩進んだ。