鶏小屋から始まる家計簿
嘉島芙美は、証券会社の分析部門で働いていた。
数字を並べ、来期を予測し、起こっていない損失へ先回りする。退職して川沿いの集落へ移ってからも、生活費、修繕費、野菜の収量まで表計算へ入れた。
予定外を減らせば、不安も減ると思っていた。
古民家の裏には、壊れた鶏小屋が残っていた。
近所から「二羽だけ飼ってみないか」と若い雌鶏を譲られ、芙美は板と金網を買った。設計図どおりに作ったつもりが、地面が傾き、扉が閉まらない。
鶏は待ちきれず、作業中の小屋へ入り、釘の箱を蹴った。
「まだ完成してないの」
二羽は土をつつき、まったく気にしない。
芙美は端材をかませ、扉へ古い縄をつけた。
見栄えは悪いが、夜には閉まる。鶏は藁の上で羽を膨らませ、翌朝には小さな卵を一つ産んだ。
帳簿には、餌代、金網代、板代を入力した。
卵一個の原価を計算すると、驚くほど高い。
「買った方が安いじゃない」
隣人に言うと、笑われた。
「朝、裏へ見に行く値段も入れたかい」
それから芙美は、毎朝まず鶏小屋へ行った。
卵がない日もある。代わりに羽が一枚落ちていたり、二羽が同じ隅へ無理に座っていたりする。数字にできない小さな出来事が、朝の欄を埋めた。
春、卵が六個たまった。
近所から分けてもらった新玉葱を刻み、大きなオムレツを焼く。裏返すのに失敗し、半分が崩れた。
隣人を呼ぶと、「味は割れない」と皿へ取り分けた。
卵は濃く、玉葱は甘い。焼けたバターの香りが土間へ広がり、鶏たちは窓の外から何か言いたげに覗いている。
芙美は家計簿へ「卵六個」と入力し、その横に金額ではなく「三人で食べた」と書いた。
損益の列は空欄にした。
夏の夕方、鶏小屋の扉は湿気でまた少し歪んだ。
芙美は縄を結び直し、藁を足す。川から涼しい風が来て、家の台所には昼のオムレツの甘い匂いがまだ残っていた。
明日の卵は予測できない。けれど朝になれば、小屋へ見に行く理由がある。それだけは、どんな表より確かな見通しだった。