黒い傘は返事をしない
筧優子は、電話を切ったあとも謝り続ける癖があった。
通販会社の相談窓口で、朝から返品、遅配、壊れた箱の話を聞く。一日の終わりには、誰もいない給湯室で「申し訳ございません」と呟いていることがある。
梅雨の夜、アパートの傘立てから黒猫が出てきた。
濡れた傘の隙間に体を入れ、黄色い目だけを光らせている。
「こちらは共用部分となっておりますので」
仕事の口調で言ってから、優子は自分でおかしくなった。
「……そこ、寒いでしょう」
猫は返事をしなかった。
管理会社へ連絡し、近所の掲示板にも写真を載せた。保護するあいだの名は「傘」。黒い背中が、閉じた雨傘に似ていた。
傘は鳴かない猫だった。
餌が欲しくても器の前に座るだけ。遊びたくても紐を優子の足元へ置くだけ。触られたくなければ、静かに棚の上へ逃げる。
優子はつい、何でも言葉で確かめようとした。
「お食事はこちらでよろしいでしょうか」
「室温に問題はございませんか」
「ご不便をおかけしておりませんか」
傘はそのたび、目を細めた。
ある日、ひどく怒鳴られた。
優子に落ち度はなかったが、電話の向こうの声は長く、強く、最後には人格まで否定した。帰宅しても胸がざらつき、電灯をつける気になれない。
暗い玄関へ座り込むと、傘が近づいてきた。
「本日は、ご迷惑を……」
そこまで言って、声が止まった。
猫は膝へ乗らず、隣に座った。濡れてもいない背中から、乾いた布団の匂いがする。
「疲れた」
優子は初めて、説明も敬語もつけずに言った。
傘は答えない。ただ尾の先を、優子の手の甲へ一度だけ置いた。
しばらくして雨が降り始めた。
窓を打つ音に重なって、かすかな振動が聞こえる。傘が喉を鳴らしていた。声にしなくても伝わる返事があるのだと、優子はその夜に知った。
飼い主は結局見つからず、傘はそのまま同居人になった。
優子は仕事から帰ると、玄関で「ただいま」とだけ言う。傘は迎えに来る日も来ない日もある。どちらでもよかった。
雨の晩、二人は窓辺に並ぶ。優子は温かい紅茶を飲み、傘は丸くなって眠る。
湯気には柑橘の香りがあり、黒い毛には乾いた日向の匂いがある。外では無数の雨粒が何かを訴えていたが、今夜の優子は、すべてに答えなくてもよかった。