B面を聴く席

 久々津藤子は、金曜の夜にレコード喫茶「針音」へ行く。

 客が一枚ずつ盤を選び、店主が順番にかける。会話は小さく、携帯電話は鞄へしまう決まりだった。

 藤子が好きなのは、カウンターの端から二番目の席だ。

 自宅では音楽を流しながら料理や掃除をする。

 職場ではイヤホンで雑音を消す。

 針音では、曲を聴く以外にすることがない。カップを持つのも、頁をめくるのも、音が途切れるまで待つ。

 藤子は有名な曲より、レコードのB面を選んだ。

 店主は何も言わず盤を裏返す。

 針が落ち、小さな雑音のあと、知らない曲が始まる。

 隣の常連が目を閉じる。藤子も曲名を調べず、ただ聴いた。

 ある夜、端から二番目の席に別の客が座っていた。

 藤子は入口で少し迷い、店主に三番目を勧められる。

「隣でも音は同じです」

「座った感じが違います」

「椅子は同じです」

 その通りなのに、落ち着かなかった。

 先客は若い男性で、何度もカウンターの木目を撫でている。

 曲が終わったあと、彼が小さく言った。

「いつもここでしたか」

「よく座ります」

「すみません」

「予約席ではないので」

 二人とも謝る必要がなく、少し困った。

 男性が選んだ盤も、B面だった。

 低いピアノと、雨のようなドラム。藤子は三番目の席で聴き、音の広がりがいつもと少し違うことに気づいた。

 右のスピーカーが近く、ベースの輪郭がよく聞こえる。

 曲が終わると、店主が深煎りの珈琲を置いた。

「席が違う日の豆です」

「豆も違う?」

「同じです」

 藤子と男性は同時に笑った。

 翌週、端から二番目は空いていた。

 藤子はそこへ座りかけ、三番目へ移った。

 低音をもう一度聞きたかったからだ。

 店主は何も言わず、いつもの珈琲を淹れた。

 針音は藤子の場所だが、席を所有する場所ではない。

 誰かが座れば、別の音を見つけられる。自宅でも職場でも求められる役割を脱ぎ、ただ一曲を受け取るための席だった。

 帰り道、上着には珈琲豆と古い木の香りが残り、B面の最後の低音が、夜の歩幅をゆっくり整えていた。