丸の内側
凪浜不動産の樫尾道香は、分譲契約を製本する営業事務だった。
月末の決裁会議では、海沿いの高層住宅十二戸、総額十二億円の売上計上が議題になった。買主の署名も手付金もそろい、融資条件は「無」とされている。
「条件のない確定契約です」
営業部長が言った。
道香は原本の束を抱えたまま、立ち上がった。契約日、買主たちは皆、ローンが通らなければどうなるかを繰り返し尋ねた。道香は十二回、同じ条項へ付箋を貼り、営業担当と一緒に「有」を指さして説明している。
「十二件とも、融資特約は有です」
スクリーンには、〈住宅ローン承認を契約条件とする 有・無〉の「無」を囲む丸が見える。
道香は一冊目の原本を開いた。丸は「有」を囲んでいた。二冊目も、三冊目も同じだった。
「コピー時に左右がずれたんだろう」
「丸はずれません」
道香は署名ページを拡大させた。買主の割印は、ページの端だけでなく、「有」を囲む丸の右端にも薄くかかっている。決裁資料では丸だけが右へ移され、割印の欠けた弧が元の位置に残っていた。
営業部長は顔を赤くした。
道香は十二冊の原本を扇のように広げた。すべての「有」に、買主ごとに違う筆圧の丸と割印が重なっている。偶然同じ場所へずれたコピーなど、一冊もなかった。
「ローンは通る見込みだ。実質的に問題ない」
「まだ三件しか承認されていません」
「残りも来週には出る」
「来週は次の期です」
道香は、買主から届いた審査中のメール一覧を置いた。うち二件は否決の連絡だった。
社長は契約書を閉じた。
「手付金は受け取っている」
「融資が通らなければ無利息で返す契約です。売上ではなく預り金です」
会議室の隅で、銀行の担当者が融資条件の計算を始めた。十二億円を外せば、凪浜不動産は債務超過になる。
「丸一つで会社を潰すつもりか」
営業部長が言った。
道香は原本を、割印の欠けた弧が見える向きに置いた。
「丸を動かして会社を残すことはできません」
議長は売上計上の決裁票を取り上げ、十二戸すべてに赤い取消線を引いた。
「条件が外れるまで、決裁も動かさない」