いいえを言える反響湯
山腹の《声返し亭》へ来た客は、王女アルネリアだった。
女将ユーフェが「お茶はいかがですか」と尋ねると、王女の口は勝手に「はい」と答えた。要らないと首を振っているのに、声だけが従う。
「幼い頃にかけられた服従の祝福です。目上の者へ否定を言えません」
翌朝、隣国との婚約宣誓がある。相手は彼女の領地を奪う条件を突きつけていたが、神官が問えば口は必ず承諾する。
「呪いを解く店はどこも、王の許可を求めました」
「うちは許可を取る相手がいません」
ユーフェは岩壁に囲まれた反響湯へ王女を案内した。声を出すと七度返る浴室だ。
「湯の中で『はい』と言ってください」
「はい」
はい、はい、はい。六つの反響は王女の声だった。だが最後の一つだけ、低い男の声で響いた。祝福をかけた先王の声だ。
「今度は、言いたい言葉を」
アルネリアは唇を震わせた。
「い……」
男の反響が先回りして「はい」と迫る。湯がざわめき、その声だけを岩壁へ押し返した。
王女は両手で湯をつかむようにして、叫んだ。
「いいえ!」
七つすべてが、彼女の声で返った。
ユーフェは続けて、小さな問いを出した。
「熱くありませんか」
「いいえ」
「もう少し入りますか」
「はい。これは私が決めた、はいです」
繰り返すたび、先王の低い声は遠ざかった。否定だけでなく、承諾も自分のものへ取り戻していく。
湯上がりに差し出された豪華な衣ではなく、王女は自分で選んだ簡素な外套を着た。それが最初の練習だった。
翌朝の宣誓殿。神官が婚約を受けるか問うたとき、アルネリアは一度だけ「いいえ」と答えた。祝福は消えていない。それでも自分の声のほうが強くなっていた。
昼、彼女は護衛を連れず宿へ戻った。自分の財布から銀貨を数え、料金皿へ置く。
「次の予約をしても?」
「もちろん」
「では来月、領地の契約を断る前日に」
ユーフェが帳面へ日付を書く。
「王女殿下のお名前で?」
アルネリアは少し考えた。
「いいえ。今日は、アルネリアだけで」
彼女が笑って扉を閉めた直後、外側からもう一度ベルが鳴った。