もう一人の歩数

薊原聡志はトレイルランの動画を投稿していた。次のコースに選んだ梟首山は、尾根の一部が禁足地になっている。古い山岳会報には、事故記録の末尾に一文だけあった。

《日没後、禁足尾根で自分の影を踏んではいけない》

聡志はヘッドライトが作る錯覚を避ける教訓だと思った。会報に添えられた遭難図では、全員が尾根を下っているのに、足跡だけは山頂へ一人分多く戻っていた。事故欄の死亡者数と生還者数を足すと、入山者より一人多い。

スマートウォッチ記録

17:41 禁足尾根進入

17:56 日没

18:03 心拍数142

18:04 歩数差+1

尾根で背後から白い光が差し、聡志の影が前へ長く伸びた。車道などない。振り返っても杉林しかなかった。走り出した瞬間、右足が影の頭を一度だけ踏んだ。

足元で、乾いた頭蓋骨を踏み割る音がした。

影は二つに裂けた。先に走る影の手首にも時計の光があり、表示される歩数は聡志より一歩多い。影が曲がるたび、実際にはない分岐が地面へ黒く伸び、その先に慧のマンションの非常灯が見えた。一つは聡志の動きに従い、もう一つは尾根の先へ勝手に走った。聡志は追わず、登山口まで下った。途中の分岐標識には、先に走った影の靴跡が黒く焼きついていた。どの矢印も《自宅》へ書き換わっている。時計の歩数は一歩ごとに二つ増えたが、心拍数は一人分だった。

動画には何も映っていない。音声には、聡志の呼吸より半歩早い呼吸が最後まで重なっていた。代わりに健康アプリが「同行者とのワークアウト」として保存していた。

あなた:18,421歩

同行者:18,422歩

同行者が先にゴールしました

聡志は記録を削除した。翌日から、部屋の中で動かなくても歩数が増えた。毎晩日没後に始まり、山へ向かう距離だけ進む。位置共有には、聡志の端末と同名の点が禁足尾根を走っていた。

一週間後、歩数差がゼロになった。

時計が振動した。

《同行者があなたの現在地に到着しました》

玄関の人感センサーが点灯し、廊下からランニングシューズの音が近づいた。聡志は息を止めた。

健康アプリが最後の通知を出す。

《二人でのワークアウトを再開しますか》

選択肢の「はい」が、足音に合わせて一歩ずつ押し込まれていった。