カップに書いた名前
桐乃は、オフィスの給湯室でいつも余ったコーヒーを飲んだ。誰かが多く淹れたもの、会議後にポットへ残ったもの。好みを聞かれれば「何でも大丈夫です」と答える。自分のために新しく一杯作るほどではないと思っていた。
広報部へ来た椎名宗介は、ほとんど話さない。背の高い紙コップに毎朝、自分の名字を太い字で書く。共有冷蔵庫でも、宗介のものは迷いようがなかった。飲み物は日によって違うのに、名前だけは同じ大きさだった。
ある朝、桐乃が冷めたコーヒーへ湯を足していると、宗介が新品の紙コップを一つ置いた。油性ペンと短いメモも添える。
『今日は、飲みたいものを作って、名前を書く』
「子どもみたいですね」
宗介は否定も肯定もせず、自分のカップを持って出ていった。
桐乃はメモをポケットに入れ、結局そのコップを使わなかった。昼の会議では、飲み物の注文をまとめる後輩に「皆と同じで」と答えた。届いたのは無糖のアイスティー。冷房の効いた部屋で、指先まで冷たくなった。
新人の頃、会食の店を聞かれて本当に食べたい辛い料理を答えたとき、先輩に「皆が困らないものにして」と笑われたことがある。それ以来、好みはわがままの別名だと思った。余り物を選べば、誰の選択も邪魔しない。けれど、余ったものばかり飲むうち、自分が何を温かいと思うのかさえ曖昧になっていた。
午後、企画案について意見を求められた。桐乃はまた「どれでも」と言いかけた。選べば責任が生まれる。好みを見せれば、否定されたとき自分まで否定された気がする。
机の端に、白い紙コップが残っている。
退勤前、給湯室には誰もいなかった。桐乃は棚の奥からココアを出した。甘すぎると笑われそうで、職場では一度も飲んだことがない。粉を多めに入れ、熱い牛乳を注ぐ。
油性ペンを持つ。名字なら部署の備品のようで安全だった。彼女は少し考え、カップの正面に「桐乃」と書いた。
席へ戻る途中、同僚に「それ、甘いやつ?」と聞かれる。
「うん。私、これが好き」
桐乃はカップの名前を隠さず、両手で持って自分の机に置いた。