ゼロ気圧の中身
岩倉はボンベの元弁を開き、酸素を室内へ放出した。
御厨は自分のマスクを着けたまま、信じられないものを見る目を向ける。
「全部捨てるつもりか」
二人の足元には同容量の酸素ボンベ。壁の規則は短い。
《残量計の針を、最初にゼロへ到達させた参加者を勝者とする》
御厨は呼吸を速め、肺で酸素を消費しようとしていた。岩倉はマスクを使わず、元弁の脇にある調整弁をいっぱいまで開く。高い噴射音とともに針が急降下した。
百、六十、二十。
だが五を過ぎたあたりから、針の動きが鈍る。御厨は笑った。
「空になる前に、お前が倒れる」
岩倉は返事をせず、ボンベを横倒しにして床の低い位置へ置いた。室内には開始時の空気があり、放出した酸素も混ざっている。彼が窒息する理由はない。
やがて針がゼロへ触れ、緑灯が点いた。
《勝者、岩倉》
御厨が残量計を指す。
「中にはまだガスがある。音だってしていた!」
「あるよ」
岩倉は弁を閉じ、ボンベを起こした。
残量計が示すのは絶対的な真空からの圧力ではない。外の大気圧を基準にした差圧だ。ボンベ内部が室内と同じ圧力まで下がれば、酸素分子が残っていても針はゼロになる。
規則は《空にした者》ではなく、《針をゼロへ到達させた者》と書かれていた。主催者は参加者が呼吸で競うと決めつけ、計器のゼロと無を同じ意味にした。
岩倉の扉が開く。
彼はまだ重みの残るボンベを御厨の前に立て、笑った。
残量計の文字盤には、単位の横に小さな《G》が付いていた。絶対圧ではなくゲージ圧を示す記号だ。御厨は百から減る針を量の百分率だと思い込んだが、岩倉は自転車の空気入れと同じ計器だと見抜いた。外気と同じになった瞬間こそ、針にとってのゼロだった。
針が止まった後も、弁口へ薄紙を当てれば揺れた。中身が残ることは、判定前から確かめられた。
空ではなく、外と同じになったのだ。
「ゼロは、何もない数字じゃない。何を基準にしたかを忘れた数字だ」