チョークの粉が金色になる
黒板の隅に、「学校をやめたい」と書いた。
誰もいないと思っていた。
「字が小さいな」
後ろから先生の声がした。
私は慌てて消そうとしたが、先生は黒板消しを取り上げた。
放課後の教室はオレンジ色で、チョークの粉が光の中を漂っていた。
「大きく書けば?」
「冗談です」
「冗談なら、もっと面白く」
先生は教卓へ腰を下ろした。
私は三学期から欠席が増えた。父が仕事を失い、家計を助けるため夜に働いている。授業中に眠り、成績が落ち、友達には怠けていると思われた。
退学して働いたほうがいい。
家ではそう言われていない。それでも、言われる前に決めてしまいたかった。
「やめたら、楽になります」
「何が」
「全部」
「全部は便利な言葉だな」
先生は黒板の文章の下へ、黄色いチョークで線を引いた。
「学校をやめたい。家計を助けたい。眠りたい。恥ずかしい。どれが本当だ」
私は答えられなかった。
夕日が机の脚を長く伸ばしていた。私の影は黒板まで届き、「やめたい」の文字へ重なった。
「先生、来月で異動なんですよね」
「そうだ」
「じゃあ、責任ないですよね」
「ない」
前にもどこかで聞いたような答えだった。
「でも、今ここで話を聞く責任はある」
先生は奨学金や授業料の減免、夜間への転籍について説明した。知らない制度ばかりだった。
「やめる道も残しておけ。ただ、知らないまま一つに決めるな」
日が沈み、黒板の文字が見えにくくなった。
先生が照明をつけようとした。
私は止めた。
「もう少し、このままで」
暗くなるまで、二人で話した。
最後に私は黒板消しを受け取り、「学校をやめたい」の「やめたい」だけを消した。
残ったのは、「学校を」。
その横へ、黄色いチョークで書き足す。
『明日も考える』
先生は何も言わず、黒板の写真を撮った。
翌月、私は夜間部へ移った。
先生は別の学校へ行った。
黒板の言葉はその日のうちに消されたはずなのに、夕暮れを見るたび思い出す。
チョークの粉が金色になる短い時間。
終わらせることと、選び直すことが、同じではないと知った時間。