ピアノ教室の雨音

音々は、雨の日のピアノが好きだった。

生徒の来ない午後、教室の窓を少し開ける。雨樋を流れる水、車が濡れた道路を走る音、隣家の庇から落ちる雫。それぞれ違う拍子で鳴る。

四時の生徒、十歳の明日葉が来た。傘を閉じると、髪の先から水が落ちた。

「今日は練習してません」

いつもより小さな声だった。

発表会で弾く曲は、途中の三小節で毎回止まる。音々が理由を訊くと、「雨みたいに弾けない」と言った。楽譜の指示には〈軽く、流れるように〉とある。

音々はピアノの蓋を閉じた。

「じゃあ、本物を聞こう」

二人で窓際へ椅子を運んだ。雨は弱くなったり強くなったりする。一定の速さではない。大粒が一度だけ窓を打ち、その後に細かな音が続いた。

明日葉は膝の上で指を動かした。

「間違ってるみたい」

「雨は楽譜を見ないからね」

もう一度ピアノへ戻る。明日葉が弾くと、三小節目で少しつかえた。けれど止まらず、そのまま次へ進んだ。

レッスンの終わり、音々は温かい林檎茶を出した。明日葉は両手でカップを持ち、「今日の雨、甘い匂い」と言う。

母親が迎えに来る頃には、雨は霧のように細くなっていた。

一人になった教室で、音々は同じ曲を弾いた。完璧に揃えず、窓の音へ少し遅れて鍵盤を押す。林檎と濡れた庭の匂いの中で、曲はいつもより柔らかく流れた。

発表会の日も雨だった。明日葉は舞台袖で窓の音を探したが、厚い壁の向こうからは聞こえない。代わりに、あの日の大粒と細雨を思い出して弾いた。三小節目で一音外したが、止まらなかった。客席の音々には、その一音が窓を打った雫のように聞こえた。演奏後、二人で林檎茶を飲む。会場の紙コップでも甘い香りは変わらず、濡れた傘の並ぶ玄関まで続いた。

帰り道、明日葉は傘を指で軽く叩き、曲の三小節を口ずさんだ。傘布の音は調子外れだったが、足取りは止まらない。水たまりが一つ、靴の下で低い音を加えた。