プールに映った校舎

水泳部の先輩が、卒業までに一度だけ夜のプールを見たいと言った。

三年間、朝も放課後も泳いだ場所なのに、夜は立入禁止。卒業式の翌日には改修工事が始まり、古いプールはなくなる。

私たちは閉門後、部室の窓から入った。

泳ぐつもりはない。水難事故が怖いから、足も入れない。それが計画の約束だった。

プールサイドへ出ると、水面に校舎の窓が映っていた。昼間より静かで、青いタイルの傷まで見えた。

「きれい」

先輩はスタート台へ座った。

私は冷たいタオルを二枚持ってきた。泳がないのに、いつもの癖だった。

「最後の大会、出たかったな」

先輩は肩の手術で夏の大会を欠場した。その後も部の記録係を続け、誰より早くプールへ来た。

みんなの前では一度も悔しいと言わなかった。

「今から一往復する?」

私が冗談で聞くと、先輩は水を見た。

「したら止める?」

「全力で」

「じゃあやめる」

笑ったあと、長い沈黙があった。

先輩はポケットから小さな防水ケースを出した。中には、最後の大会で使うはずだったゴーグル。

「ここに置いていきたい」

「工事で捨てられます」

「だから」

私は受け取らなかった。

捨てることと、置いていくことは違う気がした。

「持って帰ってください。終わった記念じゃなくて、次に泳ぐときのために」

「もう競技はしない」

「海でも、市民プールでも」

先輩は困った顔をした。

「後輩って残酷だね」

「先輩が終わった顔するからです」

水面で校舎の影が揺れた。

先輩はゴーグルをケースへ戻した。

代わりに、冷たいタオルを一枚プールサイドへ広げた。そこへ二人の手形を水でつける。

すぐ乾いて消える印。

「これなら工事前に消える」

翌朝には跡はなかった。

夜のプールへ入った証拠も残らない。

卒業から一年後、先輩から海辺の写真が届いた。首に、あのゴーグルをかけていた。

『競技じゃない一往復』

私は返信した。

『約束違反。夜じゃないから許します』

古いプールはなくなった。

けれど水面に映った校舎と、置いていかなかったゴーグルだけが、私たちの間に残った。