ベランダのアネモネ
宮前円香が夜勤を終えて帰る日曜の朝、シェアハウスのベランダにはアネモネが一本置かれていた。
丸い共用テーブルの、いつも円香がコーヒーを飲む席。空き瓶に挿され、差出人はない。濃い紫、白、赤。毎週色だけが変わった。夜勤で固くなった目には、その色だけが朝らしく見えた。
同居人の千早は「恋じゃない?」と楽しそうに言った。候補は、その千早と、屋上で家庭菜園をしている上階の石動、宅配のたびに円香へ飴をくれる上月。三人とも、ベランダへ続く廊下を通る。
円香は花を喜びながらも、少し怖かった。去年の誕生日、母から届くはずだった荷物が来なかった。それ以来、何かを待つ癖をやめたつもりだったからだ。母は再婚し、連絡は途切れている。円香はその話を、飲み会の帰りに一度だけ千早へこぼした。
四本目の花の根元には、屋上の赤茶けた土が残っていた。瓶を結ぶ細い布は、共用猫の首輪を直した残り。そして花は、千早が土曜の遅番を終えた翌朝だけ届いていた。
次の日曜、円香は夜勤明けに玄関を開けるふりをして、階段の陰へ戻った。
千早が猫を抱き、紫のアネモネをテーブルへ置いた。
「やっぱり、千早だった」
猫が先に鳴き、千早は観念して椅子へ座った。
屋上の石動から苗を分けてもらい、千早が育てていた。円香が誕生日の話をした夜、「何も届かない朝がいちばん静か」と笑ったのが忘れられなかったという。
「でも、慰められるの嫌いでしょう。だから誰からでもない花なら、受け取りやすいかなって」
「毎週だと、ちょっと怪事件だけど」
「途中でやめたら、また待たせる気がして」
円香は怒る代わりに、花瓶をテーブルの中央へ動かした。誰かにかわいそうと思われるのは苦手だった。でも、何も聞かずに朝を埋めてくれる人がいるのは、思っていたより息がしやすい。
冷蔵庫には千早が買った二個入りのプリンがあった。二人で蓋を開け、猫には空のカップだけを渡す。
円香は一口すくった。
「来週からは、二人で咲くのを待とう」