ボス部屋の非常レバー

「蟻后ソロは物量で潰されるだけ」

「雑魚が毎秒二十体。範囲職でも足りない」

「藤堂玄吾、武器が工具箱って何だよ」

藤堂玄吾は《黒鉄蟻巣》の最下層へ降りると、ボスではなく壁を見た。

巨大な蟻后マテルナは、産卵孔から兵隊蟻を際限なく吐き出す。攻略隊は火力役を六人並べても三分しか持たなかった。だが元ダンジョン設備員の玄吾には、黒い壁の継ぎ目が別のものに見えていた。予算削減で解雇された時、上司は「設備知識は討伐に役立たない」と笑った。玄吾はその制服だけを捨てず、今日も工具箱の底へ畳んでいる。

彼は錆びた案内板の泥を拭う。

読めたのは《緊急洗浄区画》の文字と、赤い矢印。矢印の先には、半分岩へ埋まった古いレバーがあった。

「そんなギミック、攻略Wikiにない」

「蟻后が壁を増築して隠したのか?」

「でも非常洗浄って、水が出るだけじゃ……」

産卵孔が開く。

黒い波が床を覆い、玄吾の靴へ迫った。蟻后は腹を持ち上げ、酸の塊を天井まで膨らませる。玄吾は工具箱を置き、両手でレバーを握った。

一度だけ、下へ引く。

古い機械が目を覚ました。壁の奥で歯車が順番に噛み合い、配信の集音器へ、七年ぶりの起動音が届く。玄吾はその音を聞いた瞬間だけ、解雇前と同じ癖で小さく「よし」と言った。

天井の配管が開き、白い蒸気が巣全体へ噴き出す。水ではない。建設当時、暴走した魔物細胞を洗い流すための高圧聖塩水だった。

兵隊蟻が触れた端から灰になる。

蟻后は産卵孔を閉じようとしたが、配管は巣の内壁――つまり彼女が自分の体で増築した通路の中まで延びていた。逃げ道すべてから白い奔流が逆流し、巨体を内側から洗い抜く。

「施設ギミックが巣と一体化してる!」

「討伐じゃなくて清掃手順を再起動したのか」

「攻撃ログゼロ、操作ログ一件」

「元設備員、ダンジョンの取扱説明書を知ってるの強すぎる」

玄吾はレバーへ《点検済》の札を掛けた。赤い札は、解雇の日に持ち帰った最後の備品だった。

直後、ダンジョン庁の地図に七年間空欄だった一文が追加された。

【最下層設備:正常稼働/管理責任者・藤堂玄吾】