一名有効の半券
黒瀬更紗は、名画喫茶オリオンの窓口に、黄ばんだ前売券を差し出した。上映作品の題名は『遠い港』。四年前、兄が二枚買ったうちの一枚だった。二人で観に来るはずの日、兄は入院し、そのまま劇場へ戻れなかった。
映画は今夜、一度だけ再上映される。店も月末で閉店するという。更紗は券を財布に入れて来たが、上映を見るつもりはなかった。使えない券を返し、兄との予定を正式に終わらせたかっただけだ。
窓口の内側にいる店主は、兄のことを覚えていた。学生のころから通い、パンフレットの誤植を見つけるたび、楽しそうに知らせてきた客だったらしい。更紗の知る兄は家業の経理を継ぐ真面目な人で、映画の話をするときだけ早口になった。亡くなったあと、更紗が代わりに会社へ入ることを、家族は自然な順番として受け入れた。
けれど昨日、映像制作会社から採用の連絡が届いた。学生時代に諦めた仕事だった。返事の期限は、今夜の上映が終わる時刻と同じ。家業を離れれば、兄が空けた席をまた空けることになる。そう思うと、承諾のボタンを押せなかった。
店主は前売券を古い穿孔機へ差し込んだ。更紗は返金されると思ったが、丸い穴が開いたのは券の右端だけだった。中央の切り取り線には触れず、半券を二つに分けない。
それから券面の「二名連記」という古い印刷へ細い訂正線を引き、赤いスタンプで「一名有効」と押した。追加料金の差額だけを計算し、釣銭と一緒に券を戻す。店主は兄の分を破ることも、記念に保存するよう勧めることもしなかった。
上映室前の廊下には、更紗一人しかいなかった。開場を知らせるベルが鳴り、店主は扉を片側だけ開けた。兄が来る余地を残したようには見えなかった。ただ、一人が通れる幅だった。
更紗は座席へ向かう前に、採用通知を開いた。承諾欄へチェックを入れ、送信する。財布には、切り離されていない前売券を戻した。
映画を見る席も、これから働く場所も、兄の代わりではなく更紗の一席になった。暗くなる前に、自分でそこへ座った。