一名様を二度
波々伯部勇樹は二十九歳の医療機器営業で、吹雪の夜に袴田村の小さな宿へ飛び込んだ。予約はスマホから済ませていたが、受付では紙の宿帳にも署名を求められた。
開かれた頁の最下段には、すでに「波々伯部勇樹」とある。住所も携帯番号も正しい。時刻だけが三十分先だった。
主人は古い木札を見せた。
《同じ氏名を、宿帳の二行へ書いてはいけない》
勇樹は予約情報が自動で転記されたのだと思った。だが筆跡確認のため直筆も必要だと言われた気がして、次の行へ一度だけ同じ名を書いた。顔を上げると、主人は帳場の奥へ下がっていた。
部屋には布団が二組敷かれていた。片方には、濡れた革靴と勇樹の名刺入れが置かれている。自分の鞄を探すと、名刺入れは確かにない。
勇樹は一睡もせず、夜明け前に車で去った。バックミラーに宿が映らなくなるまで、助手席のシートベルト警告は鳴り続けた。
帰宅後、スマホの顔認証が解除されない。《別の利用者が使用中》と表示される。再登録しようとすると、登録済みの顔が二件あった。どちらも勇樹だが、一件は三十分先の時刻で毎日更新されている。
サポートへ重複登録を相談すると、《片方が先に退会するまで統合不能》という返答が来た。スマートウォッチは一つの腕から二種類の脈拍を拾い、片方は勇樹より常に三十分早い。自宅の洗面台には同じ歯ブラシが二本並び、片方だけ先に濡れている。会社へ着く頃には彼の席で誰かが商談を終え、勇樹の署名入り見積書を送っていた。
宿泊予約履歴には同じ部屋が二件残り、一件はすでにチェックアウト、もう一件は永久連泊になっていた。勇樹が自宅へ入るたび、玄関カメラは入室者一名、退室者一名を同時に記録する。
コンビニのセルフレジでは、カメラが彼を二名客として数えた。
「袋は二枚ご利用ですか」
不要を押す前に、背後のスピーカーから自分の声が答えた。
「一枚でいい。俺は先に帰るから」
レシートには購入者が二行印字されていた。
波々伯部勇樹 退店済
波々伯部勇樹 宿泊継続中