一泊ぶんの押し入れ
環の部屋は、環がいなくなってからも環の部屋だった。
襖には、小学生のとき母が作った木の札が下がっている。〈たまきのおへや〉。丸い文字の端が日に焼け、ピンクの紐だけが妙に鮮やかだった。
「右の引き出し、空けてあるから」
母が押し入れから布団を出しながら言った。
環は一泊分のボストンバッグを畳に置いた。自宅マンションの配管工事で水が止まるため、今夜だけ泊まりに来たのだ。
「服は入れないよ」
「どうして。何着か置いておけば、いつ戻ってきても困らないでしょう」
父も廊下から顔を出した。「会社が嫌になったら、すぐ帰ってくればいい。ここはずっとお前の部屋なんだから」
その言葉は優しい形をしていた。けれど環には、今の部屋も仕事も、いつか失敗して戻ってくる仮住まいだと言われているように聞こえた。
母が引き出しを開ける。中には、昔の体操服と、大学受験の参考書が一冊ずつ残されていた。
「空いてないね」
「これは思い出よ」
「じゃあ、お母さんの思い出を入れる場所だ」
環は木の札を襖から外した。釘は使われておらず、紐を持ち上げるだけで簡単に取れた。
「何するの」
「ここを客間にして。私は今夜の客でいい」
父が眉をひそめる。「家族を客扱いするのか」
「客なら、来る日と帰る日が決まってる。勝手に荷物を置かれない。帰る場所が別にあるって分かってもらえる」
母は布団を抱えたまま黙っていた。環は鞄から付箋を一枚出し、〈客間〉と書いて襖に貼る。
幼い木札は机の上へ置いた。捨てるつもりはない。ただ、入口に掲げておくのをやめたかった。
「朝ごはん、何時?」と母が聞いた。
「八時。九時には帰る」
「パンでいい?」
「うん」
父はまだ納得していない顔だったが、押し入れの空いた段へ体操服を戻し、参考書をその上に重ねた。
翌朝、環が布団を畳むと、〈客間〉の付箋は剥がされていなかった。代わりに、その下へ母の字で〈予約は前日まで〉と書き足されていた。
環は笑わずに頷き、一泊ぶんの鞄だけを持って部屋を出た。