一票を手放す社長
臨時株主総会の朝、榊原紫苑の端末へ午後六時の自分から一文が届いた。
〈白票の二人に、研究部門の存続を約束しろ。〉
紫苑は二十七歳で起業した医療AI会社の社長だった。今日の信任投票で五十一%を取れば続投、届かなければ解任。机には創業時に作った銀色の投票トークンがある。
約束をすると賛成は四十九%から五十%へ増えた。一人足りない。午後六時、総会資料が白くなり、入力欄が開く。
〈午前八時へ、一文だけ送信できます〉
二周目は海外株主へ価格保証、四周目は取締役ポスト、七周目は新株予約権を条件にした。同じトークンを指で弾くたび、賛成率が一ずつ上がる。
十周目、五十一・三%。議長が続投を宣言し、社員チャットに祝福が流れた。成功条件達成。
だが確定用の契約書を開くと、票を集めるために発行した新株予約権で、従業員持株会の比率が十分の一に薄まっていた。研究部門の存続条件も一年だけ。来期には売却し、四十人を整理する計画が自動生成されている。未来の紫苑は会長になり、創業仲間は全員会社を去っていた。
端末が、最初の一文を送れと促す。
銀色のトークンには、創業時の四人のイニシャルが刻まれている。今の役員席に残っているのは紫苑だけだった。
彼は「白票の二人に――」を消した。
〈私の全議決権を従業員信託へ移し、社長解任案へ賛成しろ。〉
午前八時。
紫苑は信託契約へ署名し、自分の持株を手放した。総会では解任案が七十二%で可決。退職金条項も競業避止の対価も、議決権とともに失った。会社名から創業者としての肩書まで消えた。個人保証していた研究棟の借入だけは残り、紫苑は自宅を売って返済へ回した。ニュースは彼を『会社を捨てた創業者』と呼んだ。
午後六時一分、初めて時計が進んだ。元社員になった紫苑は、受付へ銀色のトークンを返そうとした。
「それは会社の備品ではありません」
受付係はそう言った。
紫苑はポケットへ戻した。会社はもう自分のものではない。その事実だけが、一票より重く、未来より自由だった。