一般席の財団理事
市立図書館の記念晩餐会で、鴻上原真継は九条瀬璃緒羽へ婚約指輪を返した。
「琴乃葉さんなら、財界の人脈も教養もある。司書の君と結婚しても、僕の仕事には何の広がりもない」
千代田森琴乃葉は宝石の首飾りを揺らした。
「本が好きなら、一般席で静かに楽しむのが似合いますよ」
璃緒羽は市立図書館の契約司書だった。古い鞄で通勤し、給料の話をしない。真継は、彼女が晩餐会へ入れたのも自分の招待のおかげだと思っていた。
開会すると、出版社、大学、文化財団の代表が壇上へ集まった。
司会者が新しい読書支援基金の設立者を呼ぶ。
「九条瀬璃緒羽理事長です」
璃緒羽は、国内最大の出版・教育グループ創業家の一人娘だった。相続した株式の配当だけで年に数十億円。だが家の本を売る前に、公共図書館で読者が何を求めているか知りたいと、身分を伏せて働いていた。
基金総額は三百億円。過疎地の移動図書館、点字出版、子どもの教材費へ使われる。璃緒羽自身が作った選書システムも全国導入されることになった。
真継が立ち上がる。
「僕は彼女の婚約者です。基金の運営にも協力できます」
「先ほど解消しました」
璃緒羽が静かに答えた。
琴乃葉は首飾りを持ち上げた。
「千代田森家も文化事業へ多額の寄付をしています」
財団監査役が資料を開く。
琴乃葉の家は創業家ではなく、財団の催事会社を一部請け負うだけだった。寄付実績はなく、首飾りもスポンサーから撮影用に借りたもの。琴乃葉は“財団令嬢”を名乗って真継の会社へ接待を求めたため、取引停止になった。
真継は璃緒羽へ近づいた。
「君が資産家なら、僕たちは最高の組み合わせだった」
「司書の私では、広がりがなかったのでしょう?」
館長が、完成予定の新図書館模型を披露した。建設費も九条瀬基金が負担し、璃緒羽は理事長室を作らず、司書の机を一つだけ置くと決めていた。
入口の銘板に〈寄贈者・九条瀬璃緒羽〉の名が灯る。
真継と琴乃葉の特別席が取り消され、璃緒羽が一般席の子どもたちへ本を配り始めた瞬間、最も人脈がないと笑われた司書が、何世代もの読者をつなぐ中心にいると確定した。