三ページ進まない
郁は資格試験のテキストを開き、今日三度目の同じ見出しを読んだ。
「契約成立の要件」
意味は分かるはずなのに、文章が頭へ入らない。火曜の二十二時、ローテーブルには食べ終えたおにぎりの包みと、赤いペンと、仕事帰りのレシートが広がっていた。夕飯は鮭おにぎり一個と野菜ジュース。レシートの下には、ポイント残高が二百八十三と印字されている。
試験を受ける同僚三人で「平日三十分部」というグループチャットを作り、毎晩、勉強したページ数を報告していた。最初の週は〈十二ページ!〉〈模試まで完了〉と通知が続いた。報告の数字が大きい日は、郁も負けずに机へ向かった。最近は一人が残業、一人が体調不良、もう一人が無言の日が増えた。
郁は二十一時半に〈今日は三ページで止まりました〉と送った。
既読はまだゼロだった。
正直に書いたつもりなのに、吹き出しを見るほど「頑張っていない報告」に見える。せめてあと二ページ読んで、〈五ページまで進んだ〉と訂正しようか。あるいは、冗談のスタンプを追加して、深刻ではないと知らせようか。
冷蔵庫の製氷皿から氷が落ちる音がした。郁は肩を跳ねさせ、ページの上に伏せていた顔を上げた。部屋の時計は二十二時十四分。始めてから四十四分たっている。三十分部なのだから、本当ならもう終わってよかった。
未読の三人は、郁の進み具合を採点しているわけではない。画面を見てさえいない。その単純な事実が、少し遅れて胸に入った。
郁は赤いペンで、今日読んだ最後の行に小さな印をつけた。三ページで「止まった」のではなく、三ページのところまで来た。言葉を直すためにメッセージを送り直す必要はない。自分の中だけで言い換えればいい。
テキストを閉じ、赤いペンを挟む。洗う気力のなかったマグカップに水を入れ、野菜ジュースの甘さを流した。
明日の自分が四ページ目を開ければ、それで続きになる。既読がつく前に勉強を終える夜があっても、部員を辞めたことにはならなかった。