三十六度五分
門脇樹希は、閉校した小学校の健康記録を電子化する作業員だった。二十六歳。保健室には昭和三十四年の体温表が残り、一行だけ氏名も数値も空白になっている。
養護教諭の日誌には、余白へ細い字で書かれていた。
《保健室の体温表の空欄に、自分の体温を書いてはいけない》
当時、集落で高熱の流行病が起き、亡くなった児童の体温を家族へ知らせず、空欄のまま弔う習慣があったという。空欄は「まだ冷えていない者」の席で、生きた者の数字を入れると迎えが来ると記されていた。
樹希はOCRの読み取り精度を試していた。空欄ではエラーになるため、デジタル体温計で自分を測り、一度だけ《36.5》と入力した。
保存すると、体温表のほかの数値がすべて零になった。保健室のベッドで布団が膨らみ、カーテンの向こうから子どもの咳が続く。端末には《一名、平熱へ移行》と出た。
樹希はデータを消そうとしたが、空欄だった氏名欄へ《門脇樹希》が印字された。カーテンの隙間から、白い手が体温計を差し出す。表示は樹希が触れていないのに36.5だった。
翌朝、作業会社へ自動送信された報告書には《空欄解消》とだけあった。添付の体温曲線は樹希が生まれた時から今日まで途切れず続き、最後の点で平らな直線になっている。保健室の入退室記録には、樹希が退出した直後、氏名不明の児童が彼の社員証を使って入室したと残った。児童の体温は、空欄だった。
彼は端末を置いて逃げた。帰宅後、スマートウォッチの体温記録は《測定対象なし》となり、指を当てても脈拍を検出しない。それでも鏡には自分が映り、息もしている。
冷蔵庫の前を通るたび、室温センサーは樹希の場所だけ《保冷対象》と判定した。暖房を上げても、その数値だけ三十六度五分で固定された。
午前零時、机の体温計が一人で鳴った。
《36.5》
《測定場所:旧校舎保健室》
続いて、インストールした覚えのない学校連絡アプリから通知が来た。
《門脇樹希さんのお迎えが到着しました》
玄関のインターホンには、古い看護服の女が立ち、透明な袋に体温表を入れて掲げていた。