丸くならない手

宮下渚が法律事務所を出たのは、午前零時四十五分だった。

受付横の冷蔵庫に、父から届いた弁当袋がある。中身は丸い塩むすびが一つ。脳梗塞のあと、右手が動かしにくくなった父が、左手だけで握ったものだった。

丸いはずの米は片側が大きくへこみ、胡麻がそこへ集まっている。袋には、通所介護のパンフレットも折って入っていた。父が自分で丸をつけた曜日は、火曜と金曜だった。

渚には、地方支所の立ち上げを任せたいという打診が来ている。三年をかけて目指した仕事だったが、父の通院と買い物を理由に断るつもりでいた。

父が倒れてから、渚は予定表を色分けし、薬の箱へ曜日を書き、失敗の起きない暮らしを作った。父は礼を言いながらも、何かを頼むたびに声を小さくした。渚は必要とされることで安心し、父が一人でできることまで先回りしていた。転勤を諦めれば、親孝行という分かりやすい答えも手に入る。姉は海外にいて、近所の親戚へ毎週頼るわけにもいかない。自分が残る以外にないと思っていた。

父には転勤の話をしていない。言えば、迷惑をかけていると謝る。謝らせてまで行きたい仕事なのかと考えると、口が閉じた。

渚は冷えたおにぎりを両手で持った。父の握り方は弱く、へこんだ部分から米粒がほどける。胡麻の香りが、袋の中にかすかに残っていた。

形を直そうと、指を添えた。けれど押せば、父が左手で作った跡まで消えてしまう。

渚はへこみから食べた。米は少し崩れ、掌へ粒がついた。丸くなくても、一人分のおにぎりとして足りていた。

パンフレットを開くと、父の字で〈自分で送迎を頼む〉とある。震えた線でも、選んだ意思は読めた。渚は父を守ることばかり考え、父が選ぶ余地まで自分の手へ握り込んでいたのだと気づいた。

最後の米粒を指で拾い、転勤打診の回答欄へ〈受諾〉と入力する。続けて、通所介護の申込書に、父が選んだ曜日を写した。

おにぎりの形は直さなかった。空になった袋も畳まず、そのまま鞄へ入れた。明日、父の前で二枚の書類を並べるために。