乾杯の銘柄
山あいの酒蔵で開かれた同窓会に、戸室紅葉は遅れて現れた。
墨色のワンピースに、艶のある髪を一つに結んでいる。徳永沙耶は一瞬、誰だか分からなかった。
「紅葉? ずいぶん都会っぽくなったね」
言いながら、沙耶は昔と同じように鼻を鳴らした。紅葉の家が小さな米農家だったことを“土の匂いがする”とからかい、弁当に入っていた酒粕漬けを窓から捨てたのは、もう短く触れるだけでいい過去だった。
沙耶は東京の商社勤務を誇り、年収と海外出張の回数を数え始めた。
「この蔵も古いだけでしょ。私はフランスの高級ワインしか飲まないの」
紅葉は入口の杉玉を見上げた。
「今日は日本酒だけど、大丈夫?」
「付き合ってあげる」
乾杯の直前、蔵元が壇上へ立った。
「今夜は特別な酒を開けます。世界酒類コンクールで最高賞を受賞した〈雪あかり〉です。そして醸造責任者を紹介します」
呼ばれたのは紅葉だった。
高校卒業後、彼女は醸造学を学び、実家の米と地元の水で新しい酒を造った。海外のレストランが採用し、ブランドは五十か国へ輸出。蔵の売上は五年で二十倍になり、紅葉は共同経営者として億単位の報酬を得ていた。
沙耶はグラスを持ったまま固まった。
そこへ、フランスの高級ホテルグループの購買責任者が通訳を伴って入ってきた。紅葉へ新たな独占契約書を差し出し、沙耶が何度も名前を挙げていたホテルの全店で〈雪あかり〉を採用すると告げる。
「あなた、あのホテルと取引あるの?」
紅葉が尋ねると、沙耶は答えを濁した。実際には出張で一度泊まっただけだった。
購買責任者は紅葉の手を取り、酒造りの指を宝石のように褒めた。
乾杯の音頭が始まる。全員のグラスに、紅葉の名前が小さく刻まれた限定瓶から酒が注がれた。沙耶はラベルを見つめる。そこには英語と仏語で、醸造家・戸室紅葉と記されていた。
「土の匂い、まだする?」
紅葉が静かに聞く。
海外契約の署名が済み、最高賞の酒で全員の杯が上がる。沙耶が見下した田んぼの土は、その乾杯で、世界で最も高く売れる香りになった。