二つのゼロ

AI向け半導体の特許売却会議で、神足詩織は回路配置を請け負った小会社の設計者として呼ばれた。売却対象は、配線遅延を抑える新しいクロック構造。発明者は大手メーカーの主席技師一人とされていた。

主席技師は、自分が独自に着想した証拠として三月一日の設計メモを示した。特許明細書にも同じ数値がある。

「配線間隔〇・〇八ミリ」

詩織はその二つのゼロを見て、胸が冷えた。実際の間隔は〇・八ミリ。〇・〇八では製造できない。誤記は、彼女が二月二十日に元請けへ送った初期案にだけあった。翌朝には修正版を送り、量産データも〇・八で作っている。

主席技師は、偶然の誤記だと言った。

詩織は初期案のファイル情報を開いた。余白の非表示コメントに「神足案・ゼロ一つ削除」とあり、主席技師のアカウントが二月二十一日に閲覧している。三月一日の設計メモは、その初期案をコピーして作られていた。文書の固有IDも一致した。

さらに特許図面には、詩織の会社だけが使う部品番号体系が残っている。独自発明なら入り込まない記号だった。

売却先の役員は、間違った数値でも特許の権利範囲に影響しないのかと尋ねた。

弁理士は答えに詰まった。実施可能性と発明者性の両方が争われれば、売却価値は大きく下がる。

主席技師は詩織へ、下請けの契約をすべて切ると告げた。

詩織は修正版の送信記録へ署名した。

「ゼロ一つなら消せます。でも、送った人まで消すには二つ必要だったんですね」

主席技師の上司は、詩織の初期案は会社の委託成果だから、誰を発明者にしても経済的には同じだと言った。買い手側の弁理士が即座に否定した。特許法上、発明者の名義は契約で作れない。詩織は黙って、〇・八へ直した修正版と受領確認メールを隣に並べた。

詩織の派遣元も共同発明者として協議を求める正式書面を提出した。

役員は三十五億円の承認書を裏返した。〇・〇八という作れない寸法が、作られた発明者の契約を止めた。