二つの名字の申請書
叶実は、通称使用申請書の〈使用理由〉を三度書き直した。
来月、一成と婚姻届を出す。法律上の名字は変わるが、職場では今の名字を使い続けたい。七年かけて担当先に覚えてもらった名前であり、来期から任されるブランド刷新の責任者名でもある。
一成は反対していない。ただ、式の招待状も、新居の表札も、二人で選ぶ新しい名字に揃えたいと言った。
「別々に見えるのが、少し寂しい」
その言葉を、叶実は軽く扱えなかった。
机の上には二枚の名刺がある。旧姓の名刺には、擦れた角と、これまでの仕事が染みついている。総務が見本として作った新姓の名刺は、白く、まだ誰にも渡していない。二つ並べると、未来が名札のように分かれて見えた。
受付の横には、名字変更に必要な手続きの一覧が貼られていた。メール、印鑑、保険証、口座。通称を選べば、その一覧とは別の説明が何度も増える。それでも、面倒が少ないほうを正しいほうと呼びたくなかった。
仕事の名前を残すのは、結婚より仕事を優先することなのか。新しい名字へ変えるのは、築いたものを捨てることなのか。どちらかの説明に自分を押し込めれば、決めるのは簡単だった。
一成からメッセージが来た。
〈今日、申請出すんだよね〉
続いて、
〈僕は寂しい。でも叶実が決めていい〉
叶実は〈ありがとう〉と打ち、消した。理解してもらえた話にしたくなかった。一成の寂しさは、申請書を出せば消えるものではない。
使用理由の欄に、最後はこう書いた。
〈継続中の業務および対外的信用を維持するため〉
愛着とも、自分らしさとも書かなかった。仕事上の必要を、結婚への反抗に飾らない文章だった。
申請書へ旧姓で署名し、その下の戸籍名欄には、来月からの名字をゆっくり書いた。二つの名前が同じ紙に並ぶ。
叶実は一成へ写真を送った。
〈この形で出す。あなたが寂しいままでも〉
既読がつく前に、総務の受付印が押された。叶実は二枚の名刺をどちらも捨てず、違う箱へ分けてしまった。