二つ目の名刺
伊吹には、二つ目の名前があった。
婚約指輪の内側にも、私が呼ぶ名前ではなく小さな英字が刻まれていた。彼はメーカーの記号だと言った。
普段は現金しか使わず、写真を嫌い、勤務先の名刺も見せない。理由を尋ねると、「家が少し面倒で」と曖昧に笑った。私は事情のある人を責めない。女性向けの起業講座で、何百人もの悩みを聞いてきたからだ。
ただ、彼の質問は恋人らしくなかった。
「途中解約した人には、何割返すの?」
私が規約を説明すると、伊吹は必ず同じ箇所をもう一度尋ね、スマートフォンを机へ伏せた。もう一つ、講座の同意画面を見せた時だけ、指でスクロールせず、各ページを写真に撮った。
興味を持ってくれているのだと思った。
私の講座では、受講者が弱気になると個別面談を増やす。辞めたいと言う人には、今逃げる癖が人生を悪くすると教える。分割払いの残額も、夢への覚悟として払ってもらう。厳しさは愛情だ。
受講者同士で不安を広げないよう、退会した人の連絡先は削除させた。家族に反対された女性には、成功を妬む人から離れる宿題を出した。伊吹はその説明を聞くたび「本人が望んでいなくても?」と確認した。私は、望む力すら失った人を導くのが講師の仕事だと答えた。その答えを、彼は妙に丁寧に復唱した。
婚約届を出す前日、伊吹の鞄から別の名刺が落ちた。名前も勤務先も違う。そこには消費生活相談員と書かれていた。
問い詰めると、彼は黙って書斎の扉を開けた。私の講座を辞めた女性たちが、オンライン画面の向こうに並んでいた。脅すような面談、返金拒否、家族と縁を切れと勧めた記録。伊吹が集めていたのは、結婚の資料ではなかった。
「最初から私を騙したの?」
「姉があなたの講座で借金をした」
私は彼の姉を覚えていた。すぐ泣く、成功に向かない人だった。
伊吹は指輪を置き、端末の送信ボタンを押した。
私が彼へ愛情の証として渡した管理者権限は、その瞬間、全受講者の音声記録を相談窓口へ開いた。