二キロ先の生活

木曜の午後九時、奏はコンビニの袋を提げて、アパートの階段を上っていた。

袋の中には、冷やし中華と牛乳と、明日の朝用のバナナがある。レシートは持ち手の隙間からはみ出し、風に揺れていた。二階の踊り場でスマートフォンが震え、マッチングアプリから新しいおすすめが届いた。

〈あなたから二キロ以内の人です〉

プロフィール写真の背景に、見覚えのある川沿いの遊歩道が写っていた。自己紹介には、最寄り駅まで徒歩十分、休日は近所を散歩、とある。駅名は書いていない。それでも奏には、だいたいの範囲が分かった。

相手が怖いわけではない。写真も文章も普通で、むしろ話が合いそうだった。けれど「二キロ」という数字を見た瞬間、帰宅途中の自分まで地図の上に置かれた気がした。

このコンビニを使うのだろうか。朝、同じ電車に乗ることがあるだろうか。ごみ出しの日にすれ違ったら。まだ「いいね」さえ押していない人の生活が、急に自分の玄関の近くまで来た。

部屋へ入り、鍵を二度回す。いつも一度なのに、無意識に確かめてしまった自分が大げさに思えた。

冷やし中華の蓋を開けると、錦糸卵が容器の片側へ寄っていた。奏は小袋のたれを切り、麺をほぐしながら設定画面を探した。位置情報を完全に切れば、近くの人は表示されなくなる。けれど遠くまで会いに行く余力もない。近所の人と出会うこと自体が嫌なのではなかった。

表示距離を「五キロ以上は一律表示」に変更し、自分の距離も相手から見えない設定にした。アプリは〈出会いやすさが下がる可能性があります〉と注意した。

奏は「変更する」を押した。

便利さを一つ減らしただけなのに、部屋が少し自分の場所へ戻った。おすすめの相手を拒否したわけでも、近くに住む誰かを疑ったわけでもない。今夜は、知らない人に自分の暮らしの輪郭を細かく渡したくなかった。

冷やし中華はたれを吸い、少ししょっぱくなっていた。奏はバナナを冷蔵庫へ入れず、テーブルの上に置いた。明日の朝、この部屋から出ていく時刻は、まだ誰にも知らせなくていい。