井戸の声は誰の祖母
山村の共同井戸から、夜ごと老婆の声がした。
「由良や、早く帰っておいで」
村役場の鬼無里由良は、同僚二人と井戸を囲んだ。
「私の名前を呼んでる」
同僚は首を振る。
「村には由良さんが四人います」
「では誰の祖母?」
「一番最近亡くなった家から」
「霊を死亡順に割り当てないで」
声はまた響いた。
「寒いよ。蓋を開けておくれ」
区長が青ざめた。
「井戸へ落ちた者の霊だ」
消防団長は区長を指す。
「蓋の管理は区の仕事」
区長は役場を見る。
「共同井戸は公有地だ」
由良はため息をつく。
「超常現象まで行政区分で回さないでください」
村人が集まり、各家の祖母の特徴を比べ始めた。
「うちの婆さんは由良を“ゆら坊”と呼ぶ」
「うちは“由良ちゃん”」
「今の声は標準的すぎる」
「死後に敬称を整理したのかも」
「声の高さは?」
「井戸で反響してる」
「では全員の祖母の可能性がある」
声が、
「お腹がすいた」
と言った。
区長が団子を用意し、消防団長はおにぎりを、由良の母は煮物を持ってきた。
「何が好きか聞こう」
由良が井戸へ叫ぶ。
「おばあちゃん、食べたい物は?」
「カレー」
村人たちは顔を見合わせた。
「ずいぶん若い味覚」
「死後に香辛料へ目覚めた」
「さっきの先祖と同じ理屈になってきた」
区長は責任の所在を決めるため、簡易の家系図まで広げた。
「由良という名を付けた家から順に確認する」
由良は呆れた。
「命名者が霊を引き取る制度ですか」
消防団長が言う。
「井戸の近くへ最初に家を建てた家系も怪しい」
「土地登記で怪談を解決しないで」
消防団が井戸の蓋を開けた。中に人影はなく、水面だけが揺れている。
その時、隣の空き家から電話の着信音が鳴った。
由良が戸を開けると、窓辺に古いスマートフォンが置かれていた。持ち主は都会へ移った高齢女性。孫へ音声メッセージを送る練習中、スマートスピーカーが誤作動し、同じ録音を夜ごと再生していた。
空き家の排水管が井戸の石垣へ沿っていたため、声だけが底から響いていたのだ。
録音の続きが流れる。
「由良じゃなくて、由愛だったかね。名前を間違えた。ごめんよ」
村の由良四人は同時に肩を落とした。
井戸の祖母は、村の誰の祖母でもなかった。