今さらの住民票

市役所の窓口が閉まる十分前、文乃は呼出番号を見間違えた。

「百八十二番の方」

 立ち上がったのは二人。隣の列から現れた岳と、三年ぶりに向かい合った。

「そっちは?」

「住民票。明日、引っ越す」

「どこへ」

「福岡」

 文乃の手にある申請書が、急に薄く頼りなくなった。

 二人は結婚を決めていた。式場より先に部屋を探し、同じ住所を書く練習までした。だが岳が父親の連帯保証で負った借金を打ち明けた夜、文乃は婚約を解消した。

 返済に巻き込まれるのが怖かった。それは今でも正しい判断だったと思う。けれど好きではなくなったわけではない。

「借金、去年終わった」

 岳が先に言った。

「共通の友達から聞いた」

「そう」

「おめでとう、でいいのかな」

「今さら?」

 冗談めかした声に、文乃は笑えなかった。

 好きだと言えない理由は、それだけだった。借金がなくなった途端に戻れば、条件が整ったから愛し直したように見える。自分でも、そうではないと証明できない。

「福岡、転勤?」

「転職。今日、転出届を出しに来た」

「今さら、この町を出るんだ」

「文乃に言われると刺さるな」

 別れたあとも岳は同じ町にいた。文乃は駅で似た背中を見るたび、追わなかった。

 窓口の時計が四時五十六分を示す。職員が受付終了の札を準備していた。

「連絡先、変わってない?」

 文乃が聞くと、岳は少し驚いた。

「変わってない。消した?」

「今さら聞く?」

「聞けるの、今しかないから」

 その言葉に、胸が縮む。

 百八十二番は岳の番号だった。窓口から再び呼ばれる。

「行って」

「文乃は?」

「私は百九十二番」

「間に合わないかも」

「明日また来る」

 岳は窓口へ行き、転出届を提出した。文乃はベンチで申請書の住所欄を見つめる。そこには今の自分の住所が、丁寧な字で書かれていた。

 手続きを終えた岳が戻る。

「じゃあ」

「今さらだけど」

 三度目の言葉を、文乃は初めて逃げ道にしなかった。

「借金があったときも好きだった。怖くて、一緒にはいられなかった。それは別のことだった」

 岳は返事を急がなかった。閉庁の音楽が流れ始める。

 文乃は申請書の余白を切り取り、自分の住所を書いた。電話番号ではなく、今暮らしている場所。

「福岡に着いたら、何か送って」

「何を?」

「今さらじゃないもの」

 岳が紙を財布へしまうのを見届けてから、文乃は受付終了の札の前で申請書を折った。明日、もう一度ここへ来る理由が残った。