介護契約書
笹生冬花は、義実家の印刷所で十年間働いた。
帳簿を整え、納期に遅れた注文を夜通し仕上げても、給与明細は一度もない。義父の惣一は「嫁が家業を手伝うのは当然」と言い、義母の芙美代は取引先の前で冬花を「雑用の子」と紹介した。夫の研吾も、家族から金を取るなと笑った。冬花の名前は従業員名簿にも、店の記念写真にもなかった。
惣一が脳梗塞で倒れると、三人の態度だけが急に丁寧になった。
「冬花さんは根気があるから介護向きよ」
芙美代が一週間分の予定を読み上げる。
「朝の着替え、昼の食事、夕方のリハビリ。夜も二時間おきに様子を見てね」
研吾は印刷所の仕事まで続けさせるつもりだった。
「父さんの介護中も、電話くらい取れるだろ」
冬花は一冊の契約書を差し出した。
業務内容、勤務時間、休憩、休日、報酬、損害保険。介護職員を一人雇う場合の相場を基準にし、夜勤と家事を加えた月額は八十二万円。過去十年の未払い賃金についても、別紙に合計額が記されていた。
惣一は片手で契約書を払い落とした。
「嫁が親を看るのに、契約などあるか!」
「契約がない労働を、私はもうしません」
冬花は印刷所の退職届と、自宅の鍵を机へ置いた。未払い賃金は労働審判で請求する。研吾とはすでに別居し、介護にも家業にも戻らない。
芙美代が声を上げた。
「お父さんを放って、平気なの?」
「放るのではありません。引き受けた覚えがないだけです」
そこへ、地域包括支援センターの担当者が到着した。家族介護が可能だと聞かされていたが、冬花の同意がないと分かり、在宅計画を白紙に戻す。
研吾が慌てて言った。
「施設は高い。妻がいるんだから、そっちを先に説得してくれ」
担当者は床の契約書を拾い、月額欄を見た。
「ご家族が無償で担わないなら、必要な費用は同じです」
介護計画書の《担い手》欄から冬花の名が消され、代わりに《長男・研吾、妻・芙美代》と印字された。