先生はいない

矢的穂高のピアノ椅子には、毎週月曜、差出人のない譜面が入っていた。

欄外には、いつも同じ文字。

「先生はいない」

穂高は舞台に立つと指が震えた。音楽教師には「技術はあるが心が弱い」と見放され、コンクールを諦めかけていた。匿名の譜面だけが、彼の震えを知っているように書かれていた。右手が止まりやすい場所には左手の低音。息が詰まる小節には、長い休符。

卒業演奏会の日、最後の一曲として、その匿名作曲家の新作を弾くことになった。

イントロは、箒の柄が床を叩くような乾いたリズムだった。舞台袖で校務員の掃部ヶ谷冬一が、客席を見ずに扉を閉める。

穂高は以前、彼へ尋ねたことがある。

「譜面を置いたのは、あなたですか」

掃部ヶ谷は笑わずに答えた。

「先生はいない」

三十年前、彼は将来を期待された作曲家だった。所属会社の盗作を告発し、業界から名前を消された。その後は学校のピアノを調律し、誰にも曲を書いたことを言わなかった。

Aメロで穂高の指が震え始める。すると低音が一拍先に鳴った。録音ではない。舞台裏の古いアップライトピアノを、掃部ヶ谷が弾いていた。客席からは見えない場所で、彼は穂高の呼吸を支えている。

サビ。二台のピアノが重なる。穂高の若い音と、名を奪われた男の低い音。教師が止めようと舞台袖へ走るが、観客はもう、曲の中心がどこにあるか聞き取っていた。

スクリーンには匿名の作曲者欄。

校長がマイクを切るよう指示する。

「校務員は先生ではない。勝手な演奏だ」

最後の小節で、穂高は予定していた高音を弾かず、立ち上がった。残された一音を、舞台裏の掃部ヶ谷が鳴らす。

穂高は客席へ向かって言う。

「先生はいない」

一瞬、校長が勝ち誇る。

「ここにいるのは、僕の先生ではありません。作曲家の掃部ヶ谷冬一です」

最後だけ、その言葉は恩を否定するものではなかった。学校が都合よく与えた役職から、彼を解放する言葉だった。

作曲者欄に本名が現れる。三十年ぶりの拍手が始まる前、掃部ヶ谷は暗い舞台裏で、もう一度だけ鍵盤へ触れた。

今度の一音には、隠れるための休符がなかった。