先輩を降りる駅
「先輩は、先に乗ってください」
宇賀神悠里は終電のホームで、四宮凌河にいつもそう言われた。
凌河は大学の二年後輩で、偶然同じ広告会社へ入った。仕事では別部署なのに、飲み会でも展示会でも、彼は悠里を《先輩》と呼び、改札では一歩後ろを歩く。二人きりで夜景を見ても、熱を出した日に食料を届けても、その呼び名が境界線になった。
好きだと認めれば、後輩の親切を都合よく受け取る気がした。悠里は先輩らしく笑い、何度も先に電車へ乗った。
けれど今夜で、凌河は会社を辞める。独立して映像制作を始めるという。送別会のあと、ホームには二人だけが残った。
「困ったら連絡してね」
「仕事の相談ですか」
「先輩としては、そう言うしかないでしょ」
終電が到着する。凌河は悠里の背中を押さなかった。代わりにスマホを取り出し、連絡先の《宇賀神先輩》を悠里の目の前で編集した。
《悠里》
さらに土曜の予定へ、《凌河の最初の作品を悠里に見せる》と入力する。場所は会社ではなく、彼が借りた小さな編集室だった。
「退職したら、先輩ではないので」
「大学では、ずっと先輩だよ」
「じゃあ、俺がその呼び方を降ります」
凌河は悠里の手を取り、電車へ乗らずに一歩下がった。ドアが閉まり、終電が行く。悠里も手を振りほどかなかった。
「明日、引っ越しの荷物を運ぶんでしょう」
「はい」
「手伝う。先輩としてじゃなくて」
悠里は自分の連絡先も《四宮》から《凌河》へ変え、土曜の予定を承諾した。
駅前で待つあいだ、凌河は新しい名刺を悠里へ一番に渡した。肩書きの下には個人番号があり、裏に《土曜十一時》と手書きされている。悠里は名刺を社員証のケースではなく財布へしまい、明日の引っ越し予定にも自分の名前を足した。
名刺を受け取る指へ、凌河の指が重なったまま離れなかった。
「先輩は、先に乗ってください」
毎回、自分を一人で帰した言葉だった。
けれど先輩を降りた夜、二人はどちらも乗らず、同じタクシーの後部座席へ並んだ。