六両目の空席
鳴海拓海が最終電車へ乗ると、六両目には必ず一つだけ空席があった。
窓際の二人掛け。座面にレモン味の飴の包み紙。頭上の案内表示には、〈全席が埋まれば終点へ進みます〉と出る。
乗客は眠ったまま動かない。拓海が空席へ座ると、五分後、発車駅へ戻った。鞄を置いても、隣の車両から人を連れてきても同じだった。
「ここ、空いてますか」
周回のたび、灰色のコートを着た女が尋ねる。拓海が譲れば、女は座る。しかし終点直前に立ち上がり、席はまた空く。
一周目は出口を塞いだ。二周目は飴の包み紙を捨てた。三周目、女の手首に自分と同じ会社の入館証があるのを見た。顔写真の欄には、十年後の拓海の顔。名前だけが〈鳴海灯〉になっていた。
「誰なんですか」
「あなたが今夜、転勤を受け入れた先で使う名前」
拓海は海外支社の不正を知り、口止めと引き換えに新しい身分を提示されていた。終電を降りたら、空港へ向かう。借金は消え、過去も消える。鳴海灯として生きれば安全だ。
女は空席を撫でた。
「ここは、あなたが捨てる名前の席。鳴海拓海が座れば、鳴海灯が立つ。鳴海灯が座れば、鳴海拓海が立つ。二人とも残ろうとするから、列車は終われない」
成功条件は、どちらか一つの身分を車内へ置いていくこと。
拓海は入館証を取り出した。裏には、今夜まで集めた不正送金の記録が入った薄いメモリーカード。告発すれば会社に追われる。新しい身分を選べば、証拠ごと消せる。
「ここ、空いてますか」
女が三度目に聞いた。
「空けておきます」
拓海は入館証とパスポートを空席へ置いた。会社の鳴海拓海も、用意された鳴海灯も選ばない。メモリーカードだけ抜き、匿名の告発窓口へ送信した。
案内表示が〈全席確認〉へ変わる。誰も座っていないのに、空席の上で入館証が人の形に沈み、灰色のコートがそこへ重なった。
電車は終点へ着いた。
拓海には会社へ戻る資格も、国外へ逃げる身分もない。口座は凍結され、住民票の住所も今夜で引き払っている。
ホームへ降りると、ポケットにレモン味の飴が一つあった。包みを開き、名札のない自分の舌で、酸っぱさだけを確かめた。