六角レンチ一本

引っ越し業者が来るまで十分。福永純也は、二人で使った食卓を裏返し、脚のボルトに六角レンチを差し込んだ。広島支社への転勤に持っていく家具は、この食卓だけだった。

長尾梨紗は向かい側の脚を押さえている。

「右に回してる」

「分かってる」

「緩めるなら左」

「分かってるって」

初めて組み立てた夜も同じ会話をした。説明書を捨てた純也と、読まずにできると言い張った梨紗で、一本の脚を逆向きにつけた。天板の裏には、そのときの鉛筆書きが残っている。表には鍋を置いて焦がした輪と、梨紗が資格試験の勉強中につけたコンパスの傷もある。処分すれば、喧嘩の数まで減る気がした。〈次の家では間違えない〉

「この机、本当に持っていくの?」

「新居は何もないから」

「単身用だもんね」

一か月前、純也は広島へ一緒に来ないかと聞いた。梨紗は「会社を辞めるのは無理」と答えた。彼は翌日、単身寮を申し込んだ。それを知った梨紗は、もう引っ越しの話をしなくなった。

「在宅勤務の申請、出してた」梨紗が言った。

「聞いてない」

「通ってから言おうと思った」

「俺は、断られたと思った」

「だから一人用を選んだ?」

「君が来ないなら、それで足りる」

ボルトが床へ落ち、乾いた音を立てた。

梨紗はポケットから合鍵を出した。食卓の角に置くと、鉛筆の文字を指でなぞった。

「申請、今朝却下された。部署に前例がないって」

「そうか」

「それだけ?」

「今さら、何を言えばいい」

チャイムが鳴った。引っ越し業者が予定より一分早く着いた。

梨紗は「持っていけば」と言い、部屋を出た。純也は追わず、外した脚を毛布へ包む。作業員が伝票を確認した。

「食卓は広島行きでよろしいですね」

純也がうなずいた瞬間、携帯に人事から通知が届いた。〈長尾梨紗さんの在宅勤務特例を承認。転居を伴う場合は住所変更を申請してください〉。再審査の決裁時刻は、梨紗が鍵を置いた一分後だった。

純也は廊下へ出たが、エレベーターはもう一階に着いている。戻ると、六角レンチが一本余っていた。

彼は食卓の天板裏へレンチをテープで留めた。鉛筆の〈次の家では間違えない〉を消さず、配送先だけを広島から保管倉庫へ変更した。