写真を消さないで
唐木田乃絵は、写真機の画面に出た「保存しますか」を押せずにいた。
隣に写る鷹司静臣は、少しだけ肩を引いている。商業施設の閉館まで五分。これが最後の撮影だった。
静臣は離婚してから、誰とも写真を撮らなくなった。前の結婚では、旅行も食事も毎日のように投稿され、笑顔の枚数だけ幸せに見えたという。離婚が決まると、元妻は二人の写真を一晩で消した。静臣は「残しても消える」と笑った。
乃絵は彼が好きだった。けれど好きと言えない。写真一枚さえ残したくない相手に、将来の言葉を渡すのが怖かった。自分は画面の外で会うだけの、期限つきの人なのだと思っていた。
乃絵のスマートフォンには、静臣の背中や手元ばかりが増えていた。正面から撮ろうとすると彼は冗談で隠れ、二人で出かけた場所にも人物のいない景色だけが残った。思い出を独占したいわけではない。ただ、後から見たとき、自分だけがこの時間を信じていた証拠になるのが怖かった。
「削除でいいよ」
静臣が言った。
「残さなくていいの?」
「乃絵、写真嫌いだろ」
「あなたが嫌いなんでしょ」
「何を」
「残ること」
閉館放送が重なり、機械の表示が残り六十秒に変わる。狭いブースから逃げるには、静臣の前を横切らなければならない。
「残さなくていいって言うたび、私まで消される準備をしてる気がする」
静臣は画面を見た。写真の中の二人は、今より近く見えた。
「前は、残ってる写真が全部嘘に見えた。笑ってた自分まで信用できなくなった」
「だから私は写らなくていい?」
「違う。消す人になりたくなかった」
残り三十秒。
静臣は保存ボタンに触れず、手を下ろした。
「残さなくていい、じゃなくて。残ったものを嘘にしない自信がなかった」
乃絵は初めて彼の方を見た。
「私も自信はない。でも、なかったことにはされたくない」
残り五秒で、乃絵は「保存」を押した。二枚印刷されたうち、一枚を静臣へ渡す。もう一枚は財布へ入れず、スマートフォンケースの透明な背面へ差し込んだ。
閉館した暗い通路で、削除用のQRコードだけを読み取らずに通り過ぎた。