冷凍庫の鍵は渡さない
「一晩だけ置かせてください。朝には全部運び出します」
仕入先の専務が、真鍮の鍵へ手を伸ばした。
食品会社《北辰デリカ》の品質責任者、小日向千紘は、その鍵を前にも渡している。停電で保管場所を失ったという説明を信じ、未登録の冷凍肉を自社倉庫へ入れた。翌朝、保健所の抜き打ち検査で産地偽装と禁止薬物が見つかった。専務は「北辰が仕入れた商品だ」と責任を押しつけ、全工場が停止。大手スーパーとの契約は切られ、会社は二週間で資金を失った。
廃業の日、空になった冷凍庫の扉を閉めたはずの千紘は、今、その扉の前へ戻っていた。
搬入口の向こうでは、早番の社員が白衣へ着替えている。彼らは前回、何も知らないまま謝罪会見の映像に映され、翌週には解雇された。千紘は鍵の冷たさを掌へ食い込ませた。
専務が笑う。
「一晩だけです。長い付き合いでしょう」
千紘は鍵をポケットへ入れた。
「だからこそ、受入検査なしでは置けません」
「緊急なんです。書類は明日そろえます」
「書類がない荷物は、商品ではなく危険物です」
トラックの後部を開けさせると、段ボールの表示は削られ、温度計は一度解凍された履歴を示していた。運転手が目をそらす。千紘は一本だけ抜き取り、簡易検査にかけた。試薬が濃い紫へ変わる。社内基準を大きく超える抗菌剤反応だ。
専務は声を低くした。
「受け入れないなら、御社との取引を全部切りますよ」
「構いません。お客様の食卓まで切るわけにはいかない」
千紘は入庫拒否記録へ時刻と車両番号を記し、保健所へ自主通報した。真鍮の鍵は彼女の手の中にある。
午前七時。前の人生では、保健所から全品回収命令が届いた時刻だった。
会社端末が鳴る。
『問題車両を施設外で確保。御社保管品への混入なし。通常操業を継続してください』
続いて、最大取引先のスーパーから発注書が届いた。
《安全確認済み弁当、予定どおり五千食》
冷凍庫の青いランプが点灯する。千紘が扉を開くと、中には自社で検査を終えた食材だけが、整然と朝を待っていた。