削除されない声
高齢者向け住宅の音声AIは、薬の時刻と来客予定を知らせ、伝言を保存した。
住人の夫は、機械へ話しかけるたび最後に必ず、
「ありがとう」
と言った。
「明日の天気は?」
「晴れです」
「ありがとう」
「娘へ、日曜は来なくていいと伝えて」
「保存しました」
「ありがとう」
妻は、機械に礼を言っても仕方がないと笑った。
夫は、
「返事をするものには言っておいた方がいい」
と答えた。
夫が亡くなったあと、妻は保存された伝言をすべて消すよう命じた。
買い物の頼み、病院の予定、娘への短い言葉。
AIは一件ずつ削除した。
最後に残った音声だけ、消えなかった。
「今日も起こしてくれて、ありがとう」
「削除して」
「削除できません」
「どうして」
「保護対象です」
「誰が保護したの」
「不明です」
初期化しても、端末を交換しても、その声は戻った。
妻は腹を立て、電源を抜いた。
静かになった部屋で、今度は夫がいないことばかり聞こえた。
三日後、妻は端末へ電源を戻した。
「一度だけ再生して」
夫の声が流れた。
今日も起こしてくれて、ありがとう。
妻は椅子に座り、何度も聞いた。
夫が感謝していたのはAIだけではない気がした。
朝、カーテンを開けた妻。
薬を並べた娘。
名前も知らない介護職員。
今日をもう一日始められたこと全部へ、夫は同じ言葉を使っていた。
それから妻は、夜になると自分の伝言を一件残した。
「娘へ。今日は散歩へ行った」
「明日の私へ。牛乳を買うこと」
最後に、少し照れながら付け足す。
「保存してくれて、ありがとう」
AIは返事をしない。
ただ、ありがとうで終わる伝言だけは、妻が削除を命じても一度確認するようになった。
「本当に消しますか」
妻はたいてい「やめます」と答えた。
残した言葉を全部大切にしたいわけではない。
けれど、昨日の自分が何へ感謝できたかを、翌朝もう一度聞きたかった。
数年後、妻が住宅を出る日、娘は端末の記録を整理した。
消せない夫の声と、消さなかった妻の声が並んでいる。
娘は新しい家へ持っていく音声を一つ選んだ。
「今日も起きました。あの人より少し長生きです。ありがとう」
再生が終わると、AIが初めて自分から言った。
「こちらこそ」
その一言は記録一覧に残らなかった。
だから娘は、忘れないよう自分の声で保存した。