削除キーの誓い

挙式まで十分。多田野隼は控室のノートパソコンで、新郎の誓いの言葉を修復していた。

式場の担当者から、同期エラーで文章が混ざったと呼ばれた。隼は出版社の校正者で、花嫁の八木澤香澄とは大学時代からの知人――そして元恋人だった。

ファイルを開いた瞬間、指が止まる。

〈朝、君より先に起きて珈琲を淹れます。帰る場所を、二人で選び続けます〉

五年前、隼が香澄へ書き、送信できなかったプロポーズの文章だった。画面のカーソルは、今も続きを待つように最後の句点の後ろで点滅していた。共有クラウドの下書きに残し、別れたあと削除したはずだった。

「これを新郎に見せたのか」

香澄を廊下へ呼ぶ。彼女は画面を見て青ざめた。

「見せてない。私も初めて見る」

「君のフォルダに復元されてる」

バージョン履歴を開くと、古い下書きと新郎の文章が同じ時刻に衝突していた。二人が昔共有していたフォルダを、香澄が結婚資料用に再利用したためだ。

履歴には、隼の下書きだけでなく、香澄がその翌日に作った未送信ファイルもあった。

〈はいと言いたかった。でも、あなたは送らないことを選んだ。私も聞かないことを選ぶ〉

隼は、文章を消す前に香澄が読んでいたことを知った。彼女は知らなかったのではない。送られなかった言葉に返事をしても、隼を追い詰めるだけだと思ったのだ。

「どうして聞かなかった」

「あなたが転職を断って、私の町へ来るつもりだと知ったから。私のせいで夢を捨ててほしくなかった」

「俺は、断られたと思って転職を受けた」

新郎が入ってきた。事情を聞くと、画面を閉じずに言った。

「残してもいいです。彼女がここまで来た時間の一部だから」

だが香澄は首を振った。

「今日読むのは、あなたが書いた言葉がいい」

開始のベルが鳴る。隼は競合した二つの古いファイルを選択した。プロポーズと返事を、最後まで一度だけ読み直す。

削除キーを押し、新郎の文章だけを保存した。画面に〈同期完了〉と出るのを確認して、ノートパソコンを彼へ返した。