動詞売り場
豊浦沙都が入った店には、商品棚の代わりに動詞が並んでいた。
《帰る》《忘れる》《許す》《勝つ》《眠る》《届く》。
札には《お一人さま一語》とある。
沙都は《帰る》を手に取った。
半年前、息子の凪人は家を出た。美術大学へ行きたいと言う凪人に、沙都は「絵で食べられる人なんて一握り」と言った。夫を早くに亡くし、現実だけを頼りに生きてきた沙都には、夢を応援する余裕がなかった。
翌朝、凪人の部屋は空になっていた。
住所は分からない。電話は着信拒否。共通の知人も口を閉ざした。
《帰る》を買えば、息子は帰ってくる。
だが、どんな顔で玄関を開けるのかまでは、札に書いていない。怒ったままかもしれない。諦めた顔かもしれない。
沙都は札を握りしめ、会計へ向かった。
途中、《許す》が目に入った。
息子が自分を許すのか。自分が息子を許すのか。どちらに働くのか分からない。
《忘れる》なら楽になれる。
《眠る》なら、毎晩玄関の音を待たずに済む。
最後に、《届く》の前で足が止まった。
沙都の鞄には、出せずにいる手紙が入っていた。宛名は空白のまま。内容は何度も書き直し、とうとう一行だけになった。
《あなたの絵を見せてください》
沙都は《帰る》を棚へ戻し、《届く》を買った。
代金は切手一枚だった。
店を出ると、鞄から手紙が消えていた。
三日後、知らない番号から画像が届いた。
灰色の駅を描いた絵だった。人混みの中で、赤い傘を持つ女だけがこちらを向いている。沙都が昔使っていた傘に似ていた。
文章はない。
さらに一週間後、二枚目が届いた。
今度は小さな台所。鍋から湯気が立ち、椅子が一つ空いている。
沙都は返事を書いた。
《帰ってきて》と打ち、消した。
《許して》も消した。
最後に送ったのは、短い一文だった。
《届きました》
すぐに既読がついた。
それだけで、その夜は眠れた。
春になっても凪人は帰らなかった。けれど月に一度、絵が届いた。沙都も月に一度、見たものを言葉にして返した。
やがて、初めて住所の書かれた封筒が来た。
中には個展の案内状が一枚。
沙都は《帰る》を買わなかったことを、もう後悔していなかった。
帰るかどうかは、凪人の動詞だった。