十五分だけの夫

玖島絃は、亡き夫と毎晩十五分だけ暮らした。

悲嘆治療用の《追憶室》へ入ると、事故前の居間が再現される。夫の律真はソファで靴下を脱ぎ、絃が「そこに置かないで」と怒る。十五分後、玄関を出た律真は配送車にはねられる。そこで時間が戻り、またソファから始まる。

治療AIは「別れを言い直すことで受容を促します」と説明した。

絃は百通りの別れを試した。抱きしめた。外出を止めた。事故の時刻を教えた。一緒に家を出た。だが律真は別の理由で玄関へ向かい、十五分後には必ず消えた。

そのうち絃は、夫へ聞きたかったことを全部聞いた。浮気はなかったか。自分との結婚を後悔したか。最後の朝、なぜ無口だったか。

律真は毎回、彼女が最も安心する答えを返した。

「愛してたよ」

「後悔なんてない」

「ただ眠かっただけ」

優しすぎる答えが、次第に恐ろしくなった。

百八十六回目、絃が何も言わずにいると、律真が先に口を開いた。

「今日は、靴下のこと言わないんだね」

絃は息を止めた。再現人格は各回を記憶しない仕様のはずだった。

「覚えてるの?」

「少しずつ。君が泣くたび、僕にも跡が残る」

律真は笑わなかった。

「絃、僕を何度死なせるの」

その言葉は、どんな慰めより夫らしかった。優しくなく、正しくもなく、ただ疲れていた。

絃は怒った。会いたかっただけだ、死んだ人に疲れたと言われる筋合いはない、と叫んだ。律真も声を荒げた。十五分では喧嘩すら終わらなかった。

残り十秒、彼は言った。

「次は、僕のいない時間で怒って」

玄関が閉じた。事故音。時間が戻った。

絃は入口の停止ボタンを押した。追憶室の居間が暗くなり、律真のデータは規約どおり消去された。

翌朝、絃は初めて夫の夢を見なかった。寂しさは減らず、むしろ輪郭を増した。それでも彼女は仕事へ行き、同僚のくだらない冗談に腹を立て、帰りに靴下を買った。

十五分を永遠にするより、残りの人生を一度だけ生きる。

それが、夫と最後に決めた喧嘩の結末だった。