十年の沈黙と役に立たない話
あなたは安西糸という。
閉店後の喫茶「砂丘」で、一人きりのはずなのに、床には二人分の影がある。
一つはあなたの影だ。
長い髪を後ろで束ね、肩を落とし、冷めたモカを両手で包んでいる。
もう一つは、向かいの空席から伸びている。短い髪。頬杖。右足だけを小刻みに揺らす癖。
それを見間違えるはずがない。
双子の姉は、いつも右足を揺らした。
同じ顔で生まれ、同じ服を着せられ、同じ大学へ入り、二十二歳まで同じ部屋で眠った。あなたが結婚を決めた夜、姉は祝福する代わりに「置いていくんだ」と言った。
あなたは「ずっと一緒なんて気持ち悪い」と返した。
結婚は二年で終わったが、その言葉だけは十年続いている。
店主は厨房で洗い物をしている。
あなたは仕事の相談があると言って閉店後まで残ったのに、退職願を鞄から出せずにいた。
会社を辞めれば、故郷へ戻る理由ができる。
戻れば、姉と同じ町に住むことになる。
会いたいのか、会いたくないのか、自分でもわからなかった。
空席の影が、頬杖を外した。
あなたは動いていない。
影は両手を膝に置き、待つように背筋を伸ばした。
「ずるい」
あなたは床へ言う。
「昔から、黙って待つのはそっちだった」
影は答えない。
十年前の姉も、最後には何も言わなかった。怒鳴ってくれれば謝れた。泣いてくれれば抱きしめられた。黙っていたから、あなたは正しいふりをして部屋を出た。
携帯電話を取り出す。
姉の番号は消していない。誕生日が同じだから、毎年通知だけが二人分届く。
発信ボタンを押すと、一度目の呼び出しでつながった。
「もしもし」
姉の声は、あなたより少しだけ低い。
用意した言葉は全部消えた。
「足、まだ揺らしてる?」
沈黙のあと、電話の向こうで椅子が軋んだ。
「そっちこそ、まだ爪を噛んでる?」
あなたは口元から手を離した。
二人は同時に笑った。
謝罪は、すぐには出なかった。
代わりに、故郷の駅前に新しいパン屋ができたこと、父が盆栽を枯らしたこと、姉が犬を飼い始めたことを話した。
言えなかった十年を埋めるには、役に立たない話がたくさん必要だった。
電話を切るころ、閉店後の店は夜明け前の色になっていた。
床を見ると、影は一つだけだった。
あなたは少し寂しくなり、すぐに笑う。
もう一つは消えたのではない。
遠い町で、本人が自分の足元へ連れて帰ったのだと思うことにした。