十時側のひび割れ

被害者の腕時計は、二十二時八分で止まっていた。

櫛田夕映警部補は、解剖室の白い照明の下で秒針を見つめた。小舟篤志が妻を殺したとされる時刻と一致する。小舟の車が自宅前へ戻ったのも二十二時八分。時計は、供述より雄弁な証拠として報告書に載る予定だった。

「確認は終わったか」

須磨康成捜査一課長が入ってきた。

「会見資料を待たせている」

「この時計、現場写真のものと違います」

「同じ型だ」

「傷の位置が逆です」

夕映は遺体発見時の写真を拡大した。文字盤の四時側に蜘蛛の巣状のひびがあり、長針は七、短針は九を指している。二十一時三十五分前後。現在の時計は十時側にひびがあり、二十二時八分で止まっていた。ベルトの内側の刻印も違う。

須磨は写真を閉じた。

「撮影角度で針がずれたんだ」

「一時間以上はずれません」

「時計は衝撃の後も動く」

「なら、すり替える必要もありません」

小舟には二十一時四十分から二十二時まで、コンビニの防犯映像がある。二十一時三十五分なら犯行は難しい。代わりにその時刻、被害者宅へ入る須磨の公用車が近隣カメラに映っていた。被害者は、須磨が捜査費を私的に流用した資料を監察へ渡す予定だった。

「小舟は妻へ暴力を振るっていた」

「だから時計を替えたんですか」

「言葉を慎め。被害者を守れなかった男だ。疑われて当然だろう」

「疑うことと、時刻を作ることは違います」

須磨は夕映の人事ファイルを知っていた。来月の本部異動、病気の母に近い官舎、すべて課長推薦が条件だ。

「この報告を出せば、君の異動はない。小舟が釈放され、世間は警察の失態だけを見る」

夕映は止まった秒針を見た。時計を替えれば、アリバイも人生も替えられる。小舟が暴力を振るった事実は消えない。だが、その罰を殺人へ伸ばす権利は警察にない。

彼女は証拠袋の時計を撮影し、現場写真、刻印の差、針の位置を補充報告書へ記した。結論欄には『押収時計の同一性を確認できず』ではなく、『別個体へのすり替えを示す』と入力する。

須磨が報告書を奪おうと手を伸ばした。

夕映は一歩下がり、解剖室の送信端末から監察と検察へ同時送信した。