午前三時の配達
榎戸眞琴は、眠気を感じない配達員として評判だった。
実際には、配達AIの販売する〈完走記憶〉を毎晩買っていた。トップ配達員が百件を時間内に運び終えた体験を脳へ重ねると、身体はすでに成功したつもりになる。疲労や迷いを無視して、最短の動きを再現できた。
眞琴は二十歳で家を出て、弟の学費を払っていた。基本給だけでは足りず、夜勤を二つ掛け持ちした。完走記憶は一回五百円。買えば千円多く稼げる。その計算はあまりにも簡単だった。
やがて、彼女は自分の配達を覚えなくなった。届け先の老女に茶を勧められたことも、雨の中で転んだことも、すべて他人の成功体験に上書きされた。端末には百二十件完了と表示されるのに、朝の眞琴には夜が丸ごと抜け落ちていた。
ある日、弟から電話が来た。
「昨日、うちに荷物を持ってきたよね」
眞琴は知らなかった。弟は玄関で「姉ちゃん」と呼んだが、彼女は配達番号だけを確認し、顔も見ず去ったという。
それでも眞琴は購入をやめなかった。学費の納期が近かった。
午前三時、狭い路地で子どもが飛び出した。完走記憶の中では、その道に障害物はない。眞琴の手はブレーキより先に加速を選んだ。直前で自転車を倒し、子どもは助かったが、眞琴は腕を折った。
会社は「個人購入した記憶による誤作動」として補償を拒否した。さらに、完走記憶の提供者が、同じ会社で過労死した配達員だと分かった。会社は死者の勤務データを遺族から安く買い、現役へ販売していた。
眞琴は弟の学費を払えなくなった。謝ると、弟は休学届を見せた。
「僕の一年より、姉ちゃんの夜のほうが高いよ」
二人で会社を訴えた。勝訴まで三年かかり、その間、眞琴は昼の小さな配送所で働いた。道を間違え、休み、客と話した。
今でも午前三時になると、知らない達成感が胸を急かす。眞琴はそのたび自転車を止め、自分がどこから来て、誰のために帰るのかを声に出す。
完走しない夜を覚えていることが、彼女の新しい労働条件になった。