午前零時の更新料
塩谷芙美の更新通知には、金額の代わりにこう書かれていた。
『更新料 直近の幸福な記憶 一件』
家賃が相場の半分なのは、そのためだった。二年前の更新後、芙美は大学の卒業式をほとんど思い出せなくなった。去年は、初めて一人で旅行した街の名前が消えた。
それでも引っ越し費用はない。今夜零時までに更新しなければ、部屋は玄関から順に芙美を忘れるという。
〈算木不動産〉の算木凌は、炭色のベストを着て、赤い玉の小さな算盤を持ち歩いていた。相談を聞くと、一玉ずつ弾く。
「安い部屋ほど、高くつきます」
「分かっています。でも、今月だけ住めれば転職先の給料が入ります」
「分かっている人は、同じ請求書を三度受け取りません」
凌は厳しい。けれど滞納扱いにせず、契約書を最初から読み直した。
『零時の時点で最も新しい、本人が幸福と認めた記憶を徴収する』
「大切な順ではないんですね」
「部屋は価値を測れません。新しいものから取るだけです」
現在、最も新しい幸福は、昨日、離れて暮らす妹から届いた音声だった。『転職おめでとう。今度こそ無理しすぎないで』。芙美はそれだけは失いたくなかった。
「では、零時前に別の幸せを作ります」
「そんな都合よく」
「幸福かどうかを決めるのは、徴収側ではありません」
凌は算盤の赤い玉を一つ外し、紙コップへ入れた。二人で交互に振り、音だけを頼りに玉が入っている方を当てる。外した方が、駅前で焼き栗を買うという妙な勝負だった。
芙美は三回続けて外した。凌があまりに真顔で紙コップを振るので、四回目に吹き出した。
「今、楽しいですか」
「少しだけ」
「十分です。覚えておきたいですか」
妹の声と比べ、芙美は首を横に振った。
零時、部屋の壁が淡く光った。笑った瞬間だけが抜き取られ、芙美はなぜ紙コップを持っているのか分からなくなった。けれど妹の音声を再生すると、胸はちゃんと温かくなった。
凌は一か月限定の更新を成立させ、翌月から入れる普通の物件も手配した。敷金の分割欄には、最初から印がついていた。
退去の日、芙美は窓辺で赤い算盤玉を見つけた。凌へ返すと、彼は空いていた場所へ戻す。
「安い部屋ほど、高くつきます」
「この玉の値段ですか」
「いいえ」
算盤を弾くと、失った笑い声の代わりに澄んだ音がした。
「守りたい記憶の値段を、部屋に決めさせないための授業料です」