午後五時の呼吸

午後四時五十三分、織壁周作は病室のカセットレコーダーを押した。残りの録音時間は七分。祖母が緑の櫛で白髪を整えながら言う。

「時計を伏せて」

五時ちょうどに祖母の呼吸は止まる。その瞬間、レコーダーが巻き戻り、周作も七分前へ戻った。十五回繰り返し、テープの磁性は薄くなった。残る再生は一回だけ。

成功条件は五時零分十秒に、自発呼吸があること。周作は酸素流量を上げ、医師を早く呼び、薬を変えた。祖母を起こして歩かせた回さえある。どの差分も十秒を作れなかった。

最後の試行。

「時計を伏せて」

周作は壁時計を見たまま、救急ボタンへ指を置いた。祖母の枕元には延命拒否の同意書がある。家族は了承した。周作だけが、時間を戻す機械を持ち込んだ。

「十秒でいいんだ」

「その十秒は、誰のためだい」

祖母は櫛を膝へ置いた。周作は答えられなかった。レコーダーは巻き戻しのたび、録音済みの声を代価に使う。もう一度戻せば、幼いころの子守歌も、卒業式の留守電も、すべて無音になる。

四時五十九分。周作は救急ボタンから手を離し、時計を壁へ伏せた。そしてレコーダーの停止を押した。

祖母の呼吸は静かに途切れた。五時零分十秒を過ぎても、部屋は戻らない。

周作は救わない選択をした。代わりに、祖母が自分で選んだ最後の七分を、誰にもやり直させなかった。

看護師が入ったとき、周作は祖母の手を握ったままだった。家族は「なぜ呼ばなかった」と責めた。周作は時間のことを説明せず、同意書を破らなかったことだけを話した。理解は得られなかった。レコーダーを持ち帰る途中、何度も再生ボタンへ触れたが、押さなかった。声が残っていないと確かめることさえ、最後の七分をもう一度自分のものにするように思えた。

祖母の部屋を片づけると、伏せた時計の裏に小さな傷があった。幼い周作が落とした跡だと母は言ったが、彼にはその日の声も笑顔も思い出せなかった。

葬儀のあと、テープを再生すると風のような雑音しか流れなかった。緑の櫛には白い髪が一本残っていた。周作はそれを抜かず、音のないケースへしまった。