取消料のかからない十七時

十六時五十分。谷川奏多は横浜の式場相談室で、キャンセル届を前にしていた。広島にいる奥村志帆とは、卓上のタブレット越しに向き合っている。取消料がかからない期限は十七時だった。

机には、校正途中の招待状が一枚ある。〈新郎・奏多 新婦・志帆〉の間に、印刷会社が誤って一本の長い罫線を入れた。志帆は「遠距離みたい」と笑い、直さず記念に取っておこうと言った。罫線の上には、二人が赤ペンで小さな駅を描き足してある。席次表の試作では、横浜と広島の友人を左右に分けず、同じ卓へ交互に座らせた。距離を祝う式にしようと、志帆が提案した。

「式、やめよう」

画面の志帆が言った。

奏多は驚かなかった。ここ二か月、打ち合わせはすべて自分一人で出た。志帆は母親の通院や残業を理由に、ドレスの試着にも来なかった。結婚後にどちらが仕事を辞めるかも決まらず、互いに「考える」と言ったままだった。

「分かった」

「待って、最後まで聞いて」

「式だけじゃないんだろ」

奏多は婚約指輪を外した。志帆がサイズを一つ間違えたため、内側に薄い調整具がついている。指輪まで、二人には少し遠かった。

「私、横浜の会社に受かった」

声が途切れ、画面が固まる。式場の回線表示が再接続中になった。

担当者が時計を見る。「ご提出なら、あと四分です」

奏多は志帆の言葉を、転職先が決まったから自分との予定を捨てるのだと受け取った。広島で仕事を続けると言っていた彼女が、自分の知らない横浜で、自分を除いた生活を始めるように思えた。

「全部、やめてください」

十六時五十九分。署名し、送信ボタンを押す。

直後、接続が戻った。

「横浜に受かった。だから大きな式をやめて、引っ越し代にしたい。来月、先に籍を入れようって言ったの」

タブレットには、遅れて届いた採用通知と新幹線の片道切符が映る。志帆の膝には、二人で暮らす部屋の申込書もあった。

奏多の携帯へ、式場からキャンセル確定が届く。志帆は画面の向こうで、彼の外した指輪を見つめた。

「全部って、私も?」

奏多は答えられない。罫線の上に描いた駅は、赤いインクが擦れて一つ消えていた。

十七時。彼は招待状を二つに折り、婚約指輪と一緒に返却用の封筒へ入れた。