受話器の向こうの読者
コールセンターの夜勤で、郁は電子書籍アプリの問い合わせを受けた。
「買った本が開かないんです。明日の朝までに読みたくて」
本人確認のあと、画面共有で購入履歴を確認する。一覧のいちばん上に表示された題名を見て、郁は息を止めた。
『二時十三分の灯台・後編』。作者は「遠火」。
郁が同人イベントと個人通販だけで売っている小説だった。紙版の購入者向けに、電子版を期間限定で配布している。問い合わせ相手は、そのダウンロードにつまずいていた。
「こちらの作品ですね」
声が揺れないよう、業務用の言い方を選ぶ。
「そうです。前編を夜勤の休憩中に読んで、ずっと続きが気になってて」
郁も夜勤の経験をもとに書いた。眠気と孤独を、海辺の灯台守に置き換えた話だ。職場では創作を隠し、作者アカウントには職業を書かない。どちらかが知られれば、もう片方まで嘘に見える気がしていた。
設定を一つずつ確認すると、原因は端末の保存容量だった。不要なデータを整理し、再度ダウンロードしてもらう。
「開きました」
受話器の向こうで、ページをめくる音がした。
「ありがとうございます。これで朝まで頑張れます」
郁は定型文を返した。
「お役に立てて何よりです」
そこで通話を終えるはずだった。だが相手は小さく笑った。
「遠火さんにも言いたいな。夜の仕事をしてる人のこと、ちゃんと知ってるみたいで嬉しかったって」
郁は名乗れなかった。顧客情報を使って作者として接触することもできない。ただ、胸の奥に沈んでいた言葉が、受話器越しに自分へ戻ってきた。
「きっと、届くと思います」
それだけ答えて通話を終えた。
休憩時間、郁は作者アカウントを開く。身元が割れるのを恐れ、先週《しばらく活動を休みます》と下書きしていた。
その文を削除し、代わりに書く。
《後編の配信不具合がある場合は、配信元の案内をご確認ください。次巻も夜明け前に進めています》
投稿後、次の着信ランプが点いた。
郁は遠火の画面を伏せず、受話器を取った。