受賞作の最後の着信

海沿いの崖でシャッターを切る二十九秒前、七種晶の携帯が鳴った。

写真誌の編集長だった。

『晶さん、年間賞が決まりました。表紙用に、もう一枚だけ強いのを』

安全柵の外にはモデルの柚木が立ち、赤いスカーフを押さえている。晶が「顎を上げて」と叫ぶ。次の瞬間、足場が崩れ、彼女は海へ消えた。

波音が途切れると、また編集長から電話が来た。カメラの連写枚数も、残り二十九秒へ戻っている。

晶が望んだのは、柚木を安全柵の内側へ戻すこと。両足が白線を越えれば反復は終わる。

最初、晶は「動くな」と叫んだ。柚木は身を固くし、崩れた岩と一緒に落ちた。

次は右へ跳べと命じた。別の亀裂へ着地した。

助手に引き戻させた回では、助手はカメラの前を横切るのをためらい、腕が届かなかった。

編集長の声は毎回同じだった。

『もう一枚だけ強いのを』

その言葉に、晶は毎回「任せてください」と答えていた。

携帯の録音を遡ると、撮影前の会話が残っている。

『ここ、危ないです。柵の中で撮れませんか』

『賞を取れば君も売れる。赤い布が風に乗るところまで出て』

安全索を外させたのも、足場確認を省いたのも晶だった。柚木が戻れないのは、二十九秒ではなく、その前から彼の評価に縛られているからだ。助ける指示さえ、また命令として届く。

次の着信で、晶は編集長の言葉を遮った。

「賞を辞退します。今の通話は録音してください」

『何を言ってる。君の代表作になるんだぞ』

晶は自分の録音データと、安全確認を省いた指示書を写真誌へ送った。続けて全スタッフの無線へ告げる。

「撮影中止。俺の命令はもう聞かなくていい」

柚木はすぐには動かなかった。やがて自分でカメラに背を向け、一歩、白線の内側へ入る。赤いスカーフだけが風にさらわれ、崖下へ落ちた。

二十九秒を越えた。

時間は戻らない。編集長は電話口で契約解除と損害賠償を怒鳴っている。年間賞も仕事も、晶が築いた名前も消えるだろう。

柚木が柵の内側から聞いた。

「今、シャッター切りました?」

晶はカメラの電源を落とした。

「切ってない。初めて」

海には赤い布だけが浮かび、受賞作になるはずだった一枚は、どこにも残らなかった。