名前のない傘立て

「名前を書いたら、誰かのものになるから」

共同アトリエの傘立てに一本だけある黒い傘へ、巴山花凜は名札をつけなかった。

持ち主は藤森成親だった。けれど花凜が先に帰る雨の日は「使って」と言い、翌朝は成親がそれを差してくる。二人で帰る日は、当然のように同じ傘へ入った。

アトリエでは皆が道具へ名前を書く。絵の具も、延長コードも、冷蔵庫の牛乳も。けれど黒い傘だけは、どちらの名前もないまま三年が過ぎた。

誰のものでもないから、二人で使える。

誰のものでもないから、返す理由も聞く理由もいらない。傘がどちらの机の横に乾かされているかだけで、その日最後に帰った人が分かった。

建物の売却が決まり、アトリエは月末で閉鎖されることになった。仲間たちは別々の場所へ移る。成親は郊外の工房へ、花凜は自宅で制作を続ける予定だった。

最終日、外は雨だった。絵の具と木材の匂いが薄れた部屋に、傘の雫だけが丸い跡を作っていた。

床の養生を剥がし、最後の箱を運び出す。空になった部屋で、花凜は黒い傘を見つめた。

「これ、持っていって」

「花凜が使えば」

「成親の傘でしょ」

「名前、ないけど」

冗談めかした声が、がらんとした壁に響く。

花凜が傘を取ると、柄に新しい革の札が結ばれていた。表には《花凜》。裏返すと《成親》。その下に、小さく翌週土曜の時刻と、新しいギャラリーの住所が刻まれている。

「展示を見に行く予定?」

「そのあと、食事。二名で予約した」

「制作仲間として?」

「その札を、どっちの面で持つかによる」

成親は傘を開き、花凜へ柄を差し出した。花凜は《花凜》の面を外へ向けて持ち、彼の手をその上から包んだ。数歩歩いてから札を裏返し、《成親》も外から読めるようにする。

「両方見えたら?」

「一緒に持つしかない」

成親が初めて名字を外して彼女を呼ぶ。花凜も「成親」と返し、空いた彼の手へ指を絡めた。

傘立てを建物の中へ残し、二人は一本だけ持って外へ出る。

名前を書いたら、誰か一人のものになると思っていた。

けれど二人の名前を結んだ傘は、その雨の日、所有物ではなく、同じ場所へ帰る約束になった。