名前のない影
円陣の中央で、ネネトの影だけが立ち上がっていた。
本人は膝をつき、胸へ剣を抱えている。影は彼女と同じ輪郭なのに、頭から二本の角を伸ばし、壁の松明を舐めるように揺れた。
七年前、影の悪魔は彼女の名を寝床にして入り込んだ。名を呼ばれるたび育ち、今夜ついに身体を奪おうとしている。
退魔師たちは円陣の外から叫んだ。
「真名を言え! 《名葬り》は、斬る相手の真名を口にしなければ届かない!」
ネネトは知っていた。
剣は真名を聞けば、その名を持つものを殺す。ただし斬ったあと、その名はすべての記憶と記録から消える。同じ名を持つ者がいれば、その者の名も例外ではない。名を失った者は死ぬわけではない。ただ、呼び止められず、誓約にも記されず、誰かの思い出の中で『あの人』に薄まっていく。
悪魔の真名は、ネネト。
彼女が生まれた夜、母が最初に呼んだ音を、影はそのまま盗んだのだ。
「言えば、お前も誰でもなくなる」
影が彼女の声で囁く。
円陣の外には母がいる。何度も名前を呼び、こちらへ手を伸ばしている。あの声を二度と自分へ向けてもらえなくなる。
影の指がネネトの肩へ重なった。爪が皮膚の内側へ沈む。あと少しで、身体の主が入れ替わる。
彼女は剣を抜いた。
「ネネト」
母が泣いた。
ネネトは自分の影へ刃を突き立てた。黒い輪郭が床に縫いつけられ、角から崩れる。悪魔は最後まで彼女の名を連呼したが、その音は途中から誰にも意味の分からない雑音になった。
影が普通の形へ戻る。
円陣が消え、母が駆け寄った。
「あなた、大丈夫?」
その目に、娘を見る光はなかった。助けるべき見知らぬ少女へ向ける、善良で遠い目だった。
退魔師が記録板を確かめる。依頼人の欄も、術者の欄も空白。墓地にある父の石からも、「我が娘――」の後の文字だけが消えていた。
少女は自分の胸へ手を当てた。
助かった。身体も記憶も残っている。それなのに、自分を呼ぶための入口だけが世界からなくなった。
「あなたの名は?」
母だった人に尋ねられ、少女は口を開く。
答えは知っていたはずなのに、その音はもう誰のものでもなかった。